備後歴史探訪倶楽部

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三の丸概要

   

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三の丸は二の丸外周の平野部を堀によって方形状に仕切った非常に広大な曲輪である。三の丸を囲む外堀は東、西、南面に幅17間~28間(30m~50m)の幅で掘られていたが、北西部は堀もなく曲輪内も自然地形のままとなっていて、「松山」、「小丸山」と呼ばれる丘陵や「御池」と呼ばれる沼などが点在していた。ただ、この北側に「吉津川」と呼ばれる河川が東西方向に横切っており、ここが実質的な外堀の役割を果たしていた。

三の丸の塁線は基本的に水面から高さ1、2m程度の石垣で築かれているが、北東部は土塁で築かれていた。土塀は各門の周囲や南東部に重点的に巡らされている。櫓は本丸・二の丸に比べ極端に少なく、南から南東にかけて3ヶ所に建てられている。このように三の丸の防備は場所により程度に差が見られるが、これは予算不足などの理由により、特に重要な箇所が優先されたが、他は未完成で工事を止めたか必要最低限に留められたのかもしれない。

三の丸内は北側を除いた大部分が屋敷となっていた。中でも東部には福山藩の政庁であり居館である「御屋形(上屋敷)」が建てられていた。御屋形は三の丸の屋敷で最も広大な面積を占めるが、築城初期は2区画に分かれ通常の家臣の屋敷であった可能性が指摘されている。他にも南側を中心に家老や番頭の屋敷が建ち並び、時代により異なるが、勘定所、細工所、焔硝蔵、馬場、などの施設もあった。三の丸への入口は南側の「大手門」のほか、「東門」、「西門」、「北門」、さらに舟の出入りする「水手門」があり、北東には通用門である「清水口」などがあった。

明治時代になると三の丸内の建物は悉く解体され更地へと姿を変えていった。御屋形は「福山県」の庁舎として利用されたが、これも取り壊され「士族授産所」となり、他の大部分の土地は畑に利用された。そして、1891年(明治24年)に山陽鉄道の線路が三の丸の南面を貫く形で敷設され、中央部に福山駅の駅舎が建てられた。これにより三の丸跡地は市街化が進行していき、1913年(大正2年)には南東部に「鞆軽便鉄道」の駅舎が建てられ、その翌年、三の丸東外堀を埋め立てて「両備軽便鉄道」の駅舎が建てられた。そして、三の丸西側には学校が建設され、東部は住宅街や商店街が形成されていった。こうして三の丸は昭和時代にその姿をほぼ失ったが、元々自然地形であった北部は木々の生い茂る状態が続いていた。しかし、ここも昭和40年代頃から開発が進められ、テニスコート、駐車場、野球場などが造成された。また近年には文学館や人権資料館も建てられた。

三の丸は現在も開発の波に曝され続けており、2005年には東外堀の石垣が発掘されたが、遺構は破壊されマンションが建てられた。2006年には福山駅前再開発に伴う発掘調査により三の丸南側の石垣が検出されたが、これも数年以内に破壊される予定となっている。

 - 三の丸