備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

小丸山

   

小丸山
小丸山は二の丸西北に位置する小高い岡である。小丸とあるように二の丸の延長線上にある小さな曲輪と呼べる性格の地形であったが、築城当初から石垣や堀はおろか土塁さえも整備されず、殆ど自然のままとなっていた。

小丸山が整備されなかった理由として古くから指摘されているのが幕府へ配慮してあえて弱点を作ったというものである。しかし、同時期に築城された城にはそうした傾向は見られず、そもそも、弱点を持った城は城としての役割を果たすことができなくなるので、この説は極めて疑わしい。

そのため、他の理由を考えると予算不足という可能性が最も高いと思われる。というのは、福山城は、枡形の二の門が省略されている、外堀の大部分に塀が造られていない、西門外枡形に建てる予定だった櫓が中止される、そして、小丸山の南側の外堀においては石垣さえ築かれず斜面がそのまま堀に達しているなど、城内各所にコストを削った形跡が見られるからである。また、福山城は築城中に北側を流れる吉津川を芦田川の本流に換える工事が水害によって中止されたといわれており、このことは福山城の建設は少なからず影響を与えているはずである。こうした計画の変更は当然コストに跳ね返ることになるため、築城の費用が当初の見積りを上回った可能性は極めて高いと考えられる。恐らく、小丸山の建設は資金の枯渇により見合わされ、資金調達後に建設を再会しようと考えたのではないだろうか。そして、福山城築城後には幕府の盤石が決定的であったため、城を強化する必然性は薄れていき、しかも、築城から10数年後に福山藩は幕府から金銭の貸与を受けるなど、藩財政は厳しい状況が続いていたことなどから、結局工事は再開されることなく中止されたのではないだろうか。

しかし、幕末になり、小丸山が福山城の弱点として曝け出されることになった。慶応4年(1868年)、福山城は長州軍による攻撃を受けることなり、福山藩兵は福山城の門を閉ざして籠城するが、この小丸山方面から城内への進入を容易に許してしまうのである。尚、この2ヶ月前に病死した藩主阿部正方はこの戦いの直前から明治2年までの約1年半の間小丸山に仮埋葬されていたが、その正確な場所は現在では分からなくなっている。

小丸山は昭和時代に入っても開発を免れ近年まで大部分が残されていたが、昭和46年(1971年)に北側の大半がテニスコートの造成によって削り取られた。また、この建設に際して事前の調査は行われず、遺構の存在や阿部正方の埋葬場所も分からなくなった。ただ、この工事は本来小丸山全体を掘削するものであったが、市の文化財保護審議会の要請によりテニスコートの位置を当初の計画より北側にずらすことで全面的は破壊だけは免れることになった。しかし、その後も内藤家長屋門の移設により東側が部分的に削られ、外堀跡に面した部分はふくやま博物館の庭園に改変されるなど、現在は本来の1/3程度の規模となり往時とは掛け離れた姿となっている。

小丸山

現在の小丸山。

現在の小丸山。

 - 二の丸