備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

月見櫓

   

月見櫓
月見櫓は福山城本丸南東端に位置する2層2階、6間×5間の建物で北側に附櫓を有している。西端の伏見櫓と共に本丸南面の左右に双璧をなしており、防衛においても格式においても非常に重要な役割を担う櫓であった。月見櫓は福山城に関する数多くの文献で伏見城から移築されたと記されているが、建物自体が廃城直後に取り壊されたので、現在、それを物証面から確認することはできなくなっている。ただ、月見櫓と同様に伏見城からの移築とされる伏見櫓は櫓内の柱に移築を示す刻銘が見つかっており、月見櫓も移築の可能性は高いと考えられている。

月見櫓は天守を除いて福山城では唯一「唐破風」が用いられ、高覧を備えるなど、非常に独特な存在である。月見櫓はその名から藩主が月見を楽しんだとされているが、本丸には月見櫓以外にも亭櫓と呼ばれる眺望を目的とした櫓があり、亭櫓が藩主の私生活の場である「奥向」に位置するのに対し、月見櫓は本丸御殿の公的な役割を持つ「表向」に属する位置にあるので、接待などに用いられていたのかもしれない。櫓の構造は資料が残されていないため不明であるが、外見については廃城直後に撮影された数点の写真が残されており、ある程度は伺うことができる(ただし、いずれも写真の解像度が低く細部は分からない)。

明治初年の月見櫓

明治初年の月見櫓

明治初期の月見櫓

明治初期の月見櫓

現在の月見櫓は古写真を元に復元されているが、以下のような異なる点もある。

1.写真では一層目南面中央の「石落し」の存在が確認できない。
1.写真では二層目高覧部に「雨覆い」が付けられている。
1.写真と窓の形状・配置が異なっている。

このうち、雨覆いは後世に付加されたと考えられており、ここに関しては築城当初の姿を再現したともいえなくはないが、実際のところ、福山城の他の復元がそうであるように、考証よりも見た目を重視してのことだろう。また、現在の櫓台は石垣の上層部が崩落しているため、凹凸が激しいが、この部分は修復・復元されていない。そのため、本来の櫓は現在より数十センチ高い位置にあったと思われる。ちなみに、木造建築であれば、このような土台に櫓を建てることはできないが、コンクリートであれば、この程度の凹凸は支障とならない。つまり、現在の月見櫓はコンクリート製ならではの建築だといえる。

絵図においては、最も初期の絵図とされる「正保城絵図」では、高覧も破風もない塔層形の建物となっており、水野中期の様子を描いたと思われる「福山城下御家中町絵図」では、破風はないが高覧を持つ建物となっている。しかし、両絵図とも櫓の描写には多くの誤りが確認できるので、実際の姿との差異の程度は不明である。ただ、「月見」の名から考えれば、高覧は当初から存在したと推定され、正保城絵図よりは松平期の絵図の方が実物に近いようではある。

正保城絵図

正保城絵図

福山城下御家中町絵図

福山城下御家中町絵図

月見櫓は廃城を経て明治初期に取り壊される。その後、1888年(明治21年)に福山城の活性化策として櫓跡地及びその西側一帯に「葦陽館」と呼ばれる貸席が建設されることになった。

葦陽館

葦陽館

この貸席は福山駅から見上げると正面に位置していたので、昭和時代まで福山城の新たな顔といえるものになっていたが、1945年(昭和20年)の空襲により天守等と共に焼失する。そして、1966年(昭和41年)に月見櫓は市制50周年記念事業で再建されることになった。

復興建設中の月見櫓

復興建設中の月見櫓

(「福山城築城三百七十年記念誌」より)

尚、内部は1階、2階とも貸席となっているが、すぐ近くの御湯殿の方が広く利便性も高いので利用するひとは希である。ただし、月見櫓は飲食が可能なので花見の時期のみは早めの予約が無難だろう。

福山駅新幹線ホームから。

福山駅新幹線ホームから。

東側に高層ビルが次々と建設され、景観は失われつつある。

東側に高層ビルが次々と建設され、景観は失われつつある。

月見櫓

正面から


石垣上端がデコボコなのがお分かりいただけるだろう。本来であれば、下写真のように石垣も含めて復元されるべきだが、これを省略して残存する石垣に直に建設されている。

参考写真(大洲城)

参考写真(大洲城)

本丸から見た月見櫓。

本丸から見た月見櫓。

 - 本丸