備後歴史探訪倶楽部

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水門

   

2005年の水門跡周辺
「水門」は三の丸南東部に設けられた内枡型状の舟入(船着場)である。水門の舟入(枡形)は三の丸に入り込んで内枡形に近い形状となっている。開口は南面していて、入口の西側には南北に付櫓のある二重櫓が建てられていた。この櫓の位置は入口東側の塁線よりも突出しており横矢掛けとなっていた。水門の門は廃城後間もなくに破却され写真や図面等も残されていないので正確な形状はわからないが、備陽六郡志によると、神辺城の大手門を移築したとされ、絵図などから「高麗門」であったと考えられている。

築城当初、外堀の南東は瀬戸内海に通じる運河「入川」に接続して、海から城内に舟で出入りすることができたといわれる。そのため、城の防備も外堀に進入した舟からの攻撃が想定されていたらしく、三の丸塁線の大部分が石垣のみであるのに水門周囲の南東部分には櫓や土塀が配されるなど極めて堅固に造られていた。しかし、水門の運用は築城から間もなくに断念されることになったようである。というのは、入川と外堀の接続部分に「築切(つききり)」と呼ばれる土橋が築かれ舟の往来ができなくなるからである。

築切が築かれたのは、外堀を海から分離させ水位を保つ目的だと考えられる。福山は瀬戸内海のほぼ中央に位置し潮汐差が非常に大きく、平均で2m程度、大潮で約3mにもなる。「正保城絵図」には外堀の水深は約3m(1間半)と記載されているので、水掘では比較的深い部類に入るが、それでも干潮時には完全に干上がることになる。近世の攻城戦おいて水堀と空掘との違いは極めて大きいため、このことは福山城の防備において致命的弱点にもなりかねない。そのため、築城後に舟の往来よりも水位の維持が優先されたようである。

しかし、考えてみると、こうした問題点は当初から想定できたはずである。もしかすると、本来の予定より堀を深く掘ることができなかったのだろうか?ただ、干潮時の水位を2mに維持しようとすると、堀は4、5m程度の深さが必要となるが、築城以前の外堀周辺は地面を少し掘れば水の湧き出る湿地帯だったので(現在も福山駅前を掘削すると水が湧き出る)、当時の土木技術ではここまで深く掘るのは非常に困難だったはずである。そのため、工事中に深く掘るのを諦めた、あるいは、縄張り(設計)の担当者が瀬戸内海の潮位を知らなかった可能性も考えることができる。何れにしても、堀切構築以後に水門は当初の目的を果たせなくなったようである。しかし、水門の施設は廃城まで維持されており、外堀内の往来等に使われたのかもしれない。

ところで、福山城の他に、こうした施設を持つ城として駿府城(静岡県)が知られている。駿府城も舟入も福山城と同じく「水門」と呼ばれ、福山城と異なり櫓門であるが、やはり舟で城内から運河へ出入りできるなど福山城に近い運用がされていたようである。福山城築城には幕府からスタッフが派遣されたといわているので、駿府城の水門が参考にされた可能性も考えることができる。ただ、駿府城の周囲は潮汐差が1m程度の場所であり、掘りの水深も場所により約5mと極めて深く掘られているため潮位は問題とはならなかった。また、海水を堀の水に利用する城としては高松城(香川県)や今治城(愛媛県)があるが、これらは水門などで水位を一定に保つ工夫がされている。こうしたことを考えると、外堀と海を直結する福山城の試みは無理があったといえるだろう。

現在、水門の位置は福山駅の南口を出た辺りだと推定されている。水門枡形は1889年(明治22年)頃に山陽鉄道(現:山陽本線)の敷地として埋め立てられ、周囲の外堀も昭和初期までに全て埋め立てられている。今日、水門の遺構は何も残されていないが、2006年に駅前広場改修(2007年度終了予定)に伴う事前調査により水門西側の石垣が発見されている。今後、本格的な発掘調査が開始されれば水門のより詳しい実態が明らかになるかもしれない。

水門周辺推定復元図

水門周辺推定復元図

 - 三の丸