備後歴史探訪倶楽部

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神辺櫓

   

神辺櫓(かんなべやぐら)は一番から四番までがあり、二の丸の南西端から北西端まで一番、二番、三番、四番の順に並んでいた。櫓の姿については資料が殆ど残されておらず、往時の姿を伺えるのはわずかに数枚の古写真と絵図によってのみである。櫓は全て明治初期に破却され、櫓台は一番櫓の基部が比較的残されているものの、二番・三番櫓は完全に石垣を失って、四番櫓に至っては痕跡すら残されていない。これは二の丸が廃城後民間に売却され宅地や農地として利用されていたためであるが、神辺櫓周辺の破壊がここまで進んだのは敷地が比較的広く利用価値が高かったからだろう。第二次大戦後、神辺櫓跡地(二の丸)は福山市の管理となり更地にされるものの整備は全く進められず、現在も二の丸で最も悲惨な惨状を晒し続けている(2006年)。このため、一刻も早い整備・復元が望まれるが今後もそうした予定はなく、皮肉にも行政の文化財に対する無関心を象徴する文化財となっている。

「神辺櫓」は名称の通り神辺城(福山市神辺町)の櫓が移築されたものといわれている。現在それを裏付けるものはないが、この伝承が正しいとすれば、神辺櫓は慶長頃に福島氏によって建てられたものなのかもしれない。実際、古写真の神辺櫓(一番、二番)は慶長期の形状・意匠を持っており、可能性はあるようだ。

尚、神辺櫓は阿部氏の時代に下記のように呼称が変えられているが、あまりに無味乾燥なためか現在は神辺櫓が広く用いられている。

神辺一番櫓→外八番櫓
神辺二番櫓→外七番櫓
神辺三番櫓→外六番櫓
神辺四番櫓→外五番櫓


神辺一番櫓

三層三階の櫓で寺社方帳面が収められたとされる(備陽六郡志)。北側の西坂口門と多聞櫓で繋がれていた。第二次大戦以前は敷地に「第一生命」の事務所が建てられていた。

神辺一番櫓

神辺一番櫓跡


神辺二番櫓

二層二階の櫓とされているが、築城初期の絵図では三層の櫓となっており、築城後に建て直されたようだ(これについてはいずれ書きたい)。西坂口門の枡形と繋がれていた。

神辺二番櫓跡

神辺二番櫓跡


神辺三番櫓

三層三階。現在櫓の跡にある平屋の倉庫は遺構とは関係ないものである。

神辺三番櫓跡

神辺三番櫓跡


神辺四番櫓

北側の乾櫓と多聞櫓で繋がれていた。南側に附櫓を有していた。

神辺四番櫓跡
正面の土手の辺りが櫓の跡だったようだ。

神辺四番櫓跡

 - 二の丸