備後歴史探訪倶楽部

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鐘櫓

   

鐘櫓
鐘櫓は現在、幅2間(正確には桁行4.26m、梁間4.209m)、二層二階、L字型の建物であるが、本来は馬出門の虎口を囲む多聞櫓の一部であった。そのため、往時は「櫓」とは認識されておらず、平屋の多聞とその上に載せられた鐘楼と考えられていた。例えば、阿部期に本丸の櫓は反時計回りに番号が振られたが、人質櫓の八番の次は鐘櫓を飛ばして火打櫓を九番としている。また、鐘櫓(または鐘突櫓)の呼称も本来はなかったもので、鐘楼部は「鐘撞堂」と呼ばれていた(備陽六郡志)。ただ、鐘櫓の呼称は単独で建つ現状の姿では的を射ているといえる。

建物が現在の規模になるのは明治時代になってのことで、往時には北端部は馬出門まで続き西端部は火打櫓に接続されていた。現在の鐘櫓が不自然なL字型なのはこの両端が削られた名残である。明治初期に周囲の多聞櫓が次々に取り壊される中でこの部分のみが残ったのは、恐らくは鐘楼の存在によるものだろう。ただ、残されたとはいっても昭和初期まで度々の改変を受けることになり、1933年(昭和8年)に福山城が国宝指定(現在の重要文化財相当)を受ける際には本来の形状を残さないとして適応から除かれることになった(現在も多聞部分は文化財の指定から外されている)。しかし、この建物は1945年(昭和20年)の福山空襲でも焼失を免れることになる。

その後、建物は廃墟同然の状態で天守等の復興以降も放置され続けていたが、1979年(昭和54年)に修復されることになり、同年10月26日、鐘楼部分が福山市の重要文化財指定を受けることになった。ただし、本来の姿は分からなくなっているので、その形状は模擬的なものである。また、このとき桧皮葺(あるいは柿葺)であった鐘楼部(二層)の屋根は銅板葺に替えられている。現在、鐘楼の庇にはソーラーパネルが加えられ、これを電源に全自動で定刻に鐘を突く装置が設置されている。鐘の鳴る時間は6:00、12:00、18:00、22:00である。

福山城のように本丸に鐘楼が所在するのは全国的に見ても例がないといわれている。しかし、この鐘楼は築城時から存在したものではないようで、福山城の初期の絵図類には鐘楼の姿は描かれておらず、築城当初は隣接する本丸御殿に藩主が起居していたので、このような場所で鐘を鳴らすとは考えにくい(それゆえ例がないといわれるわけだが)。つまり、鐘楼は藩主が三の丸に住居を移して以降に設けられた可能性が高いと考えられる。そうであれば、福山城の鐘櫓はそれほど特異な位置にあるというわけでもないようだ。文献において本丸に鐘楼の存在が確認できるのは阿部期になってのことで、備陽六郡志によると幅2尺5寸、高さ4尺5寸の鐘と直径3尺長さ3尺5寸の太鼓が据えられていたという。

馬出門枡形から見た鐘櫓

馬出門枡形から見た鐘櫓

馬出門跡から見た鐘櫓

馬出門跡から見た鐘櫓

火打櫓から見た鐘櫓

火打櫓から見た鐘櫓

 - 本丸