三の丸二重櫓
福山城の櫓は本丸と二の丸で併せて22棟(天守を除く)と非常に多く存在していたが、三の丸はこれに比べ極端に少なく3棟が南東方向に集中して配されるのみであった(櫓台のみは西門の脇にも築かれた)。東南方向に櫓が集中するのは大手門、水門、東門のページでも述べたように、入江から進入した敵に対する防衛を重視したためと思われるが、それ以外にも入江からの美観が考慮された可能性も考えられる。
三の丸の櫓の呼称については各文献の何れにも記載が見られないため、基本的に不明となっており、現在では「二重櫓」あるいは「三の丸二重櫓」などと呼ばれているが、最も東側の櫓のみは藩主居館(御屋形)を描いた「三の丸御屋形平面図」に「涼櫓(御涼御櫓)」と記入されているため、この呼称が用いられることもある。本サイトでは便宜上、東から「三の丸東櫓」、「三の丸南東櫓」、「三の丸南櫓」と呼称したい。
三の丸にあった櫓の建物は3棟とも廃城まで維持されているが、南外堀に面した2棟(南櫓、南東櫓)は明治初期に取り壊された。東外堀に面する東棟(涼櫓)のみは破壊を免れたが、倉庫などに転用され、内部、外部とも大幅な改変を受けたため、昭和8年(1933年)に福山城の建造物が国宝(現在の重要文化財相当)指定される際にはその対象から外された。そして、昭和20年(1945年)に周囲の建物に埋もれ市民からも忘れられていたところ、福山大空襲により焼失した。その後、跡地は福山通運の敷地となり現在では火災で焼き付いた櫓台の一部が残るのみとなっている。
三の丸東櫓
三の丸東櫓は東外堀に面する三の丸御屋形の敷地内に存在した二層二階の層塔型の建物である。三の丸御屋形平面図に記入された「涼櫓」は「納涼に使われた」という意味だと思われ、実際、この図には御殿から飛石が敷かれるなど、御殿を補完する役割があったのは間違いないようだ。ただし、三の丸の御屋形は築城当初にはなかったので、築城当初は通常の櫓として建てられ御屋形の完成後に改装されたと考えられる。
古写真によると三の丸東櫓は一層目に住宅のような開口部の広い格子状の窓が付けられ、二層目にも開口部の広い手摺りの付いた出窓が付けられるなど、櫓としては非常に特異な外見となっている。しかし、写真は何れも明治以降に撮られたもので、後世の改変を受けた可能性も考えられなくはない。ただ、納涼に使われたというこの櫓の目的を考えると元々このような姿であった可能性の方が高いと思われる。
三の丸東櫓は付櫓を持つが、その位置は塁線に面さない内側を向いていた。付櫓とは通常、櫓の防衛を補完するため塁線に面する場所に付けられるものなので、厳密にいえばこれは付櫓と呼べるものではないかもしれない。しかし、このように防衛上意味のない付櫓を持つことは、逆にいえば、この櫓が防衛以外の用途を持っていたということなる。そして、櫓に通じる飛石は藩主が居住する奥向きの居間に続いているなど、三の丸東櫓自体が櫓というより御殿に近い性格の施設であったようだ。更に、平面図では1階のみしか描かれていないが、建物の内部は細かく分かれており、恐らく、座敷などの施設を有したと想像される。こうしたことから、三の丸東櫓は持藩主の保養を目的としていて、涼をとりつつ二階から城下の様子を眺めるといった使い方がされていたのだろう。
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三の丸東櫓(涼櫓)跡。2005年に撮影。現在は背後にマンションが建つ。
三の丸南東櫓
二層二階の望楼型の建物で北側に付櫓を有していた。南東櫓は明治初期に入江などから撮影された写真に数多く写されているので、三の丸の櫓では外観の実態を最も正確に知ることができる。現在は商店街に埋もれ往時の様子は跡形もない。
三の丸南櫓
水手門の入口西側に突出して建てられた二層二階の望楼型の建物で北側に付櫓を有していた。
2007年に撮影。手前に2006年に試掘された石垣がある。
このラインを延長した写真後方(タクシーの辺り)に櫓があったと思われる。