備後歴史探訪倶楽部

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掛迫6号古墳

   

掛迫6号古墳

所在地:広島県福山市駅家町法成寺字掛迫

築造時期:4世紀後半

規模:墳丘(全長:47m、高さ:7m)、主体部(全長:3.8m)

  • 石室北側(長さ:3.3m、幅:0.7~1.0m、深さ:1.0m)
  • 石室南側(長さ:3.8m、幅:0.6~0.75m、深さ:0.8m)

解説:神辺平野の北面に広がる丘陵地帯、駅家町法成寺の稜線に築かれる。周囲には小規模な古墳が点在しており、「6号」の名称の由来ともなっているが、現在は周囲に6基の古墳が確認できないため、単に「掛迫古墳」と呼ばれることもある。墳丘の形態は土砂の流出や後世の造成により形状が不明瞭となっており、前方後円墳にしては後円部と前方部との高低差があることなどから、近年まで円墳か前方後円墳かで意見が分かれていた。しかし、2001年、「備陽史探訪の会」の測量調査により、前方後円墳である可能性が極めて高いことが明らかになった。尚、葺石、埴輪、周溝の存在は確認されていない。

埋葬施設は後円部中央付近、東西方向に二つの竪穴式石室が並列して造られている。 築造は両石室とも以下の手順で行われたと考えられている。

1.後円頂部(東西5m、南北3m、深さ1.5m程度)を掘削する。
2.穴(土壙)の底面を川原石と粘土でつき固める。
3.棺を配置する。
4.割石(花崗岩と石英斑岩)で棺の周囲を覆い石室を形成する。

石室の形態は両石室とも扁平の割石を積み重ねて造られているが、天井部は北側が合掌式、南側は天井石となっている。石室の築造順は、1954年の「県立府中高校地歴部(豊元国)」による発掘調査により、北側が先であることが明らかになっている。遺物は昭和期(1940年代?)に盗掘されていたものの、北側石室から、壮年男性の人骨、ダ龍鏡(直径10.8cm)、鉄斧、鉄釘などが、南側石室からは、壮年男性の歯、三角縁神獣鏡(直径21.6cm)、勾玉、小玉などが確認されている。出土品のうち、三角縁神獣鏡は同笵(同形)として、田邑2号古墳(岡山県)、佐味田宝塚古墳(奈良県)、円満寺古墳(岐阜県)など、計6面が知られており、関係が注目されている。なお、掛迫6号古墳の三角縁神獣鏡は「広島県立歴史博物館」の常設展示室に展示されている。

現在、石室の天井部は両石室とも開口された状態で放置されており、内部に土砂が流入している。また、石室の石材も脇に積み上げられるなど、破壊も進んでいる。築造時期は石室の形状や出土物などから4世紀後半と考えられているが、5世紀に入るとする見方もある。なお、備南地域(福山市・神辺町)の前方後円墳として、本古墳以外に「塩崎山古墳」(福山市新市町汐首)が知られている。

文献:掛迫第6号古墳 墳丘測量調査報告書備陽史探訪の会)、日本の古代遺跡 26 広島(保育社)、日本古墳大辞典(東京堂出版)、探訪・広島の古墳(芸備友の会) 、芸備文化5・6合併号(広島県学生生徒地方史研究会)


 

前方部から後円部を望む。前方部と後円部との高低差は約4mある。

掛迫6号古墳
後円主体部、南東方向から。昭和期に地元の人が土を採取した際に発見されたようだ。手前が南側石室、奥が北側石室。両石室とも土砂の流入・崩壊が進んでいる。

掛迫6号古墳
北側石室。1954年の発掘調査の際には崩壊が進行していたらしく、結果的に盗掘を免れたようだ。奥の天井部だったと思われる積石はいつごろされたものか定かではないが、昭和期なのは確からしい。

掛迫6号古墳
南側石室。発掘調査時には盗掘されていたが、三角縁神獣鏡が出土している。

墳丘推定復元図
墳丘推定復元図(『掛迫第6号古墳 墳丘測量調査報告書』より)
石室平面図
石室平面図(『芸備文化 5・6合併号』より)

(写真は『古跡遊歩録』様よりご提供いただきました)

【掛迫6号古墳】

 

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