備後歴史探訪倶楽部

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二の丸概要

   

二の丸
二の丸は本丸の外周に廻らされた帯曲輪で南側を除いて曲輪を上段下段の二段に分割した構成となっている。こうした形状は「輪郭式」とよばれ主に徳川系の城郭に多用されている。輪郭式は重層構造となるため縦方向に対して高い防御力を持つが、反面、曲輪内は細長い形状なるため土地の利用効率は悪く特に福山城の二の丸は二段構成であるため幅が狭く施設を配置できる余裕はほとんどない。そのため、二の丸には櫓と番所を除いた建物は殆ど建てられておらず、本丸の塁腺を補強する目的に特化した曲輪となっている。ただし、北側下段は比較的広い敷地があるため、幕府から預かった兵糧米を保管する米蔵が建てられていた。

二の丸への入口は南、南西、東の3ヶ所に空けられており、中でも南側(大手筋)の「鉄門」は櫓門に枡形を組み合せた極めて堅牢な造りとなっていた。南西の「西坂口門」と東の「東坂口門」は櫓門が用いられている。西の「水手門」は通用口であるためか練門と土塀による簡素な造りとなっていた。また、これ以外にも二の丸内部を区切る門として、北側に二の丸上段と下段とを結ぶ「蔵口門」と二の丸南西を南北に仕切る「西腰曲輪門」が櫓門で造られていた。更に土塀と練門が数ヶ所に設けられていた。二の丸の櫓は平櫓が2ヶ所、二重櫓が4ヶ所、三重櫓が5ヶ所に建てられていた。

二の丸の変遷は文献には残されていないが、絵図を比較すると築城初期に大幅な改修があった可能性が考えられる。最古の絵図である「正保城絵図」では西側上段に多聞櫓が巡らされているが、以降の絵図では土塀に変わっており、西側下段は土塁から石垣に変わっている。また、北側上段は土塀から多聞櫓に変えられている。ちなみに、正保城絵図の信頼性は高いとされており、以後の絵図の様子は廃城まで変化がないことから、この改修が事実であった可能性は高いと考えられる。

ただ、西側上段が多聞櫓から土塀に変えられるのに併せて逆に直上の本丸西側では土塀から多聞櫓に変えられているのは、その理由を考えると釈然としない。というのは、例えば火災などにより多聞櫓が失われたとして、財政的な事情から安価な土塀に変えられた、といった事例はよくあることである。しかし、本丸西側では新たに多聞櫓が建てられているので、こうした理由では説明することができない。つまり、本丸の土塀と二の丸上段の多聞櫓が交換されたと考えられるのである。では、なぜ交換されたのだろうか?恐らく、景観の面から、多聞櫓がより栄える本丸に移されたということではないだろうか。そして、これによる二の丸上段の防衛弱体化に対しては二の丸下段の斜面を石垣化することで補ったと考えることができる。

現在の二の丸は保存状態が非常に悪く石垣の残存も半分程度に留まっている。特に北面と西面の石垣は殆どが崩されていて、中でも北面は徹底的に改変され往時の形状を全く留めていない。西側は石垣が取り除かれているが塁線の形状は概ね把握できる状態となっている。南西部は「神辺一番櫓」跡を中心として石垣が残る部分があるものの、その周囲は昭和時代に遺構を無視した新たな石垣が築かれたため、旧状を大きく損ねている。南西面の大手筋は鉄道敷設により地面が大きく削り取られている。南東および東面の石垣は概ね現存しているが、東坂口門を下った辺りや福寿会館の登り口など、開発によって崩された部分もある。尚、二の丸に存在した建物は廃城後に逐次取り壊されていき、明治時代に全てが消失している。

ところで、二の丸北側の下段は築城当初から石垣が築かれていないため、福山城の弱点とされている。その理由として、俗説では幕府へ配慮してあえて防御を怠ったといわれる。しかし、本来ここは無防備というわけではなく、石垣の代わりに「切岸」と呼ばれる急斜面が形成されていた。そのため、石垣を用いなくても十分な防御力を期待できると判断された可能性も考えられる。仮にそうであればコスト削減のため石垣の構築が見送られたのだろう。しかし、切岸は石垣と異なり定期的なメンテナンスが必要であるが、阿部期には切岸の維持が怠られ埋没が進行していった。そして、江戸時代後期までに北側下段の防備は丸裸同然となり、幕末に長州軍が福山城に侵攻したときは、この部分が福山城の弱点として露呈することになった。

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