二の丸西側の整備について
2006年、ついに二の丸西側の整備に向けて福山市(教育委員会)が動き出した。崩落している石垣の整備、さらに伏見櫓や筋鉄門の保存状況も調査されるようだ。これに向けて2007年度にも正式な検討委員会を設置される見込みとなった。福山城二の丸が史跡となってから40年間、ひたすら放置され続けてきた二の丸西側の無惨な状況がようやく改善されることになりそうだ。
二の丸西側の現況
また、筋鉄門の伏見城からの移築されたとの俗説が一掃されるきっかけにもなるだろう。しかし、今頃になって整備に動き出すのは遅きに失した感は否めない。現在までに福山城の遺構は西側の文化ゾーン整備、東側のマンション建設等で破壊され続けてきたからだ。破壊されることはあっても整備されることはない、それが福山城を取り巻く現在までの状況であった(建物を除く)。ただ、逆説的にいえば破壊が進行したため整備に動き出したともいえるだろう。
二の丸西側が長期に遺構が放置されたことについては、教育委員会曰く、「天守閣などを除き、城の全景写真や実測図などの資料が戦災などで焼失し、原型を復元するような計画策定が困難だった」とのことだが、これは言い訳に過ぎない。なぜなら、近年になって新たな資料が発見されたわけでもなく、状況は以前と何も変わっていないからだ。当時も無理なら今日も無理なはずであり、それがどうして今日であれば計画策定可能となるのだろうか?
しかし、石垣の整備が天守などが復興された高度成長期でなく今日に行われるのは幸いとはいえる。というのも、近年に調査・復元の技術は飛躍的に向上しており、文化財に対する理解も当時とは雲泥の差があるからだ。恐らく、3、40年前に整備が行われていたなら、十分な調査もされないまま考証に反する復元がされていたことだろう。それは天守や月見櫓等の「復元」された建物が往時の姿と大きく異なり事前に綿密な調査も行われず報告書の類も作成されていないことからも十分に想像できる。実際、西坂口門跡の周囲は昭和時代に遺構を無視した石垣や階段が構築されている。
改変の甚だしい西坂口門跡
余談だが、教育委員会もこの点を指摘していればまだ説得力のある言い訳になっただろう。 それはともかく、現在ならばかなり綿密かつ史実に基づいた復元が要求されることになる。具体的には石垣を復元するにあたり下記のような項目が必須だといえる。
- 石垣の規模・形状は考えられる本来の姿を忠実に再現すること。
- 発掘調査を行いその結果を復元に反映されること。
- 調査結果を報告書に纏め後世に資料として残すこと。
- 福山城石垣の特徴である水平基調の布積みと呼ばれる工法が再現されること。
などである。ちなみに、2005年に発掘された三の丸東外堀の石垣は実相寺に移設されたが、その石組みは福山城の工法とは大きく異なっている。だが、今回のように福山城の石垣を再現するのであれば、工法には特に気を遣わなければならないだろう。そして、まさにこの部分が福山市の文化財に対する理解度を判断する材料となるだろう。 当サイトとしても今後の成り行きを見守りたい。
二の丸西側に放置された石材