城米蔵(五千石蔵)
五千石蔵は二の丸北側に位置する米蔵群の通称で幕府が非常用に備蓄した「城詰米」が貯蔵されていた。蔵の規模・構成は時期により異なっているが、水野後期には幅10間の蔵5棟、幅25間の蔵2棟、及び番所、算用所(計量所)で構成されていたという(水野記)。城詰米は幕府が各地の譜代大名に命じて収蔵させたもので、名目上は兵糧米の意味もあったが、実際のところ当時の幕府が籠城する事態は考えられないことなので、実質的には飢饉の救済等に備えられていた。福山藩では1634年(寛永11年)から5000石が収蔵され1639年(寛永16年)に5000石が追加され、合計10000石が収蔵されたといわれる(水野記、水野家記)。ただ、蔵の名称は10000石が収蔵されてからも引き続き「五千石蔵」が用いられていたようだ。
備陽六郡志には福山藩の城詰米が供出された例が挙げられており、1732年(享保17年)に2100石が対馬府中(長崎県)の大火の救済に当てられ、1733(享保18年)に7200石が長州赤間関(山口県)の飢饉の救済に当てられたという。また、これ以後は城詰米を備蓄することはなくなり、番所は朽ちて蔵も倒壊したため、1750年(寛延3年)の春に幅10間の蔵3棟が撤去されたと記されている。ただし、幕府の記録ではこれ以後も福山城に城詰米を備蓄されているので、備陽六郡志の記述は筆者の誤解が含まれるようだ。そこで、他の文献と照らし合わせると、1733(享保18年)以降は城詰米を10000石から5000石に減らされた。城詰米を収蔵する場所も二の丸から城下へと移された。そのため五千石蔵は不要となり放置されることになった、ということのようだ。
廃城時に五千石蔵一帯がどのような状態であったかはよく分かっていないが、明治時代には周囲の土地が民間に売却され、明治末期には空地となっていた。昭和初期には跡地の東半分は個人の別荘として、西半分はテニスコートとして使われている。この別荘は昭和20年の空襲でも焼け残り、現在は「福寿会館」と呼ばれ貸会場として使われている。また、1972年(昭和47年)には天守の礎石が移設されている。