堀の消失について
福山城の堀は内堀、外堀とも明治時代から順次埋め立てられ、現在、その100%が消失している。今日、その遺構として数ヶ所の石塁が残るのみとなっている。堀は城を構成する最も基本的な要素のひとつであり、これが完全に欠落していることは、福山城の城としての魅力を著しく低下させているといえる。
ところで、堀は現代においても極めて有効な防御設備となっている。それは「開発」という攻撃においてである。というのも、堀は城内-城外を絶対的に分離させるため、なし崩し的な開発を防ぐ効果が非常に大きいからである。逆にいえば、堀は開発にあたり最も邪魔な存在だともいえ、近世城郭の位置は総じて都心部であることなどから、外堀、総構が残された城は全国的にも極めて稀有となっている。ただ、これは現代の都市生活を営むには仕方がないとはいえる。
福山城における堀の埋め立ては山陽鉄道(:現山陽本線)の敷設から本格的に始まった。山陽電鉄の線路は三の丸の南側を横切る形で敷設され中央部には福山駅が設置されたので、駅前、駅裏となった南外堀、内堀は開発の圧力に曝されることになる。まず、内堀が埋められ宅地として利用されるようになり、1913年(大正2年)に東外堀南側が埋められ両備軽便鉄道の施設(駅舎、引込線等)が設置された。南外堀東側も大正初期には市街地となり、次いで南外堀西側、東外堀北側と姿を消していった。最後まで残った西外堀は1935年(昭和10年)に南に隣接する福山高等女学校(現:県立福山葦陽高校)の運動場の拡張によって埋め立てられ、ここに福山城の堀はその姿を完全に失った。その結果、城内と市街の境界が不明瞭な状態となり、駅から最も近い城(正確には城内に駅がある)として知られることにもなった。ちなみに、東側の堀がいち早く埋め立てられ、西側の堀が最後まで残ったのは、当時の市街の中心が東側にあったからである。
そして、第二次大戦後に福山城は公園として整備されることになり、その中で堀を復元するチャンスは何度かあったが、復元への動きは起きることなく開発は進んでいった。特に西外堀跡である現在の「ふくやま美術館」の位置は1982年から広大な更地となっていて、最も可能性の高い場所であった。かつて、都市規模に比べ文化施設が乏しく「文化の不毛な街」などと呼ばれた福山市にとって美術館建設は待望されたものであったが、それが福山城の堀という文化財の消滅を決定的にしたのは皮肉というしかない。
また、2005年、城の東側で再開発が行われ事前の発掘調査で長さ約24mに渡る東外堀の石垣が発見されたが、民有地ということもあり、やはり堀の復元が検討されることはなかった。そして内堀、南外堀は福山駅やビル街であるため復元は事実上不可能であり、北側は元々堀が存在しないので、堀の復元が可能な場所はほぼなくなっている。ただ、僅かな希望があるとすれば内堀の西端跡である現在のJR西日本「福山車掌区福山乗務員休憩所(下写真2)」周辺だろう。この施設は比較的容易に移転が可能だと思われるので、僅かな面積ではあるが堀を復活させることができるはずである。
福山城西側航空写真(1979年)
福山城周辺地図(大正3年) <得能文庫:福山市街明細地図>
水色は段階で残る堀と水路を示している。1914年(大正3年)の段階で内堀と東外堀は埋められているが、大部分は維持されていたことがわかる。ただし、堀の多くは農地に利用されており、石垣は各所で崩されていた。
○が堀遺構の位置。
1 | 内堀石垣 | 福山駅北口パークロード西 |
2 | 内堀石垣 | 福山駅福塩線西1番ガード北 |
3 | 外堀石垣 | ふくやま美術館西 |
4 | 北御門外枡形石垣 | フローレンス城見町西 |
5 | 東外堀石垣 | 駐車場内(公式には認められていない) |
6 | 東物見櫓台 | 福山駅北口広場市営駐車場北 |
7 | 東外堀石垣 | 福山駅北口広場市営駐車場内 |
8 | 西御門櫓台 | 福山駅福塩線西2番ガード下 |
9 | 西外堀石垣 | 市営三之丸駐車場内 |
※ 2005年に 発見された石垣は「5」と「6」の間。
(地元の人に言わせれば石垣が存在するのは分かりきっていたので、「発見」ではないそうである。)
※ 「5」は私が現地で見つけたもので、現在(2006年)のところ公式には認められていない。
1. | 2. |
3. | 4. |
5. | 6. |
7. | 8. |
9. | |
(2005年に発掘された石垣、現在消滅) |