御湯殿の変遷について
現在(2006年)、御湯殿の前には石版が置かれており、以下の解説が刻まれている。
湯殿、伏見城内にあった御殿とともに移築された建物で、国宝に指定されていたが、昭和二十年(一九四五)の戦災により焼失した。
昭和四十一年(一九六六)に内外とも復元したものである。
しかし、「内外ともに復元したものである。」には誤りがある。復元されていないからである。
そのことを明らかにするため、まず、「図1」をご覧頂きたい。これは江戸中期の作成と思われる「福山城本丸御殿指図」と呼ばれる本丸御殿の見取図の御湯殿周辺を拡大したものである。画像部分にマウスカーソルを合わせると(JavaScriptが有効であれば)、赤線が表示されるはずである。実線の間隔は1間(約1.81m)で間の点線は0.5間(半間)となっている。
図1
建物右側の縦長部分(以下、座敷)は幅3.5間、左側の横長部分(以下、風呂)は幅4.5間であることがわかる。次に、「写真1」をご覧頂きたい。これは、現在の御湯殿を正面(南側)から撮影したものである。これもマウスカーソルを合わせると 図1と同様に赤線が表示される。
写真1
このように、現在の御湯殿は座敷部分が幅3.5間、風呂部分が幅3.5間となっている。従って、現在の御湯殿と江戸時代の御湯殿とでは座敷は同じ規模であるものの、風呂の規模は幅が「1間」異なることになる。さらに、「図2」をご覧頂きたい。この図は「福山城図」と呼ばれる安永三年(1774年)作成の図である。これも同様にマウスカーソルを合わせると赤線が表示される(図の線が不明瞭なので緑の補助線を引いている)。
図2
この図では座敷部分は同じく幅3.5間となっているが、風呂部分は幅4間となっており、現在より幅が「0.5間」長いことになる。ただ、この図は図1ほど詳細ではないので、正確さに懸念がないわけではない。ここで、「写真2」をご覧頂きたい。
写真2
この写真は明治初期に撮影されたものである。座敷部分(赤線)の幅は3.5間、風呂部分(青線)の幅は4間と、図2と同じ値となっている。つまり、この写真は図2が正確なことを裏付けている。以上から、御湯殿の座敷部分は現在まで大きな変化はないものの、風呂部分の幅は江戸時代~現在にかけて4.5間→4間→3.5間と変遷したことになる。では、なぜ御湯殿はこうした変遷を辿ることになったのだろうか?
まず、4.5間→4間の変化から考えてみたい。実は、図1と図2には画像の範囲外に本丸御殿の全体が描かれていて、こちらにも大きな違いが認められる。図1では本丸御殿が本丸一面に立ち並ぶ様子が描かれているが、図2では奥向の殿舎は描かれていない。この変化については文献にも記述されていて、備陽六郡志には奥居間などが享保15年頃に取り壊されたことが記されている。奥向(住居)の建物が撤去されたのは藩主が本丸に住むことがなくなり、本丸御殿の必要性が薄れるなかで藩財政の逼迫もあり殿舎を維持する余裕がなくなったからだといわれている。ただし、表向部分については藩の重要な政(まつりごと)に使われることがあったので維持されることになった。そして、御湯殿の改変もこの背景で行われた可能性が高いと思われる。
つまり、御湯殿は表向に含まれ、しかも伏見城から移築された格調高い建物でもあるので必要性が認められ維持されたが、風呂部分が使われることはなくなり、恐らく荒廃するなどで補修の必要性が生じたとき、納戸か何かに改修されたのではないだろうか。あるいは、表向御殿には御湯殿以外にも「伏見御殿(表居間)」と呼ばれる建物に湯殿が付属していて、こちらは幕末まで維持されているので、湯殿はこの一ヶ所で十分だと考えられたのかもしれない。
次に、風呂部分は4間→3.5間の変化を考えたい。写真1と写真2を比較すると幅以外にも下記のような違いが認められる(現在の写真には塀があるので非常にわかりにくいが…)。
- 写真2に存在する開口部が写真1には存在しない。
- 写真2に存在しない窓が写真1には存在する。
これ以外にも御湯殿の古写真は明治時代から焼失前まで多く残されているが、それらにも時期によってかなりの違いが認められる。例として、「写真4」、「写真5」をご覧頂きたい。これは昭和初期の御湯殿を本丸東側から撮影したものと 現在の御湯殿をほぼ同じ位置から撮影したものである。
写真4
写真5
このように、座敷部分は規模こそ変わっていないが、細部は江戸時代と異なるばかりか 焼失前とも大きく異なっている。本来であれば風呂部分を写した写真があればよいのだが、私が調べた範囲では残念ながら見つけることはできなかった。しかし、逆に考えると、ないことがひとつの可能性を示すのではないだろうか。つまり、そこには撮るに値する物が存在しなかったということである。そして、これらの写真から現在の風呂部分が3.5間になった経緯を推測することができる。
福山城史によると、御湯殿は明治7、8年頃から料亭として使われることになった。座敷部分は客席として転用できるので写真4のように入口や窓が設けられたが、構造までは大きく変えられることはなかった。だが、料亭には当然、調理や配膳などの施設が必要なので、風呂部分はそうした目的に使われることになり、様々な増改築が行われた。そして、昭和初期には現在の原型というべき3.5間の幅になった、また、写真が高価な当時にこうした裏方の部分を撮影するひとはいなかった、ということではないだろうか。
ここで、さらに「写真6」をご覧頂きたい。
写真6
これは現在の御湯殿を裏側(本丸側)から見たものである。実は、これまで話を分かりやすくするため、現在の風呂部分を幅3.5間と説明してきたが、裏側の幅は4間となっている。要するに風呂部分の西面はコの字に削られた、あるいは一部が突出したというべきか、ともかく、江戸期とは異なる複雑な形状となっている。以上を表に纏めると次のようになる。
図面・写真 | 座敷部分 | 風呂部分 |
福山城本丸御殿指図(図1) | 3.5間 | 4.5間 |
安永三年福山城図(図2) | 3.5間 | 4間 |
明治初年古写真(写真2) | 3.5間 | 4間 |
現在(写真1・写真6) | 3.5間 | 3.5/4間 |
このように、現在の御湯殿風呂部分は江戸時代ではなく明治~昭和の改変を受けた形状が「復元」されている。しかし、近代的な様式の部分は江戸時代「風」に変えられ、その結果、焼失前の御湯殿と異なり、江戸時代の御湯殿とも異なる、現代の御湯殿が誕生したというわけである。従って、これを「復元」と称するのは適切ではないのである。
ただ、現実問題として詳細な調査がなされないまま建物を失った現在において江戸時代の正確な形状を復元することはできない。また、復元可能である昭和初期の姿を再建したとして、それが福山城の遺構として意味のあるものなのか?そして、再建当時の文化財に対する一般的な認識を考慮に入れるなら、今日の御湯殿は妥当な姿とはいえるかもしれない。
だが、こうした経緯を無視して 単純に「復元された」とするのは誤解を与えかねない。というより、すでに誤解を与えており早急に是正すべきだろう。筆者もかつてこうした経緯を知らないで江戸時代の風呂とはどんなものだろうと、心躍らせながら御湯殿内部の風呂部分を覗いたことがあった。しかし、そこにあったのは近代的な炊事場やトイレで湯殿は「ゆ」の字も見当たらなかった。そのときの失望は今でも忘れることができない。
ところで、歴史的経緯を重視するのであれば、「御湯殿」の呼称についても疑問を持たれるかもしれない。「御湯殿」の呼称が使われ始めたのは明治以降のことであり、歴史的経緯を重視するなら江戸時代の呼称である「御風呂屋」を用いるべきではないか。
しかし、それをいえば、「天守閣」や「武家屋敷」なども同様に近代からの呼称であり、さらに旧字体、新字体の表記まで考えるとキリがなくなってしまう。そのため、本サイトとしては「かつては御風呂屋と呼ばれていた」という認識があれば「御湯殿」でも問題はないと考えている。
参考文献:
福山城図(備後護国神社蔵)
福山城本丸御殿指図(個人蔵)
福山城誌(浜本鶴賓、1966年、福山市)