備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

本丸御殿概要

   

本丸御殿
本丸御殿は本丸の敷地全面に建ち並んでいた。現在、本丸御殿全体を「伏見御殿」と呼ぶこともあるが、これは近代になってからで、本来の伏見御殿とは鏡櫓の西側に位置した特定の殿舎のことであった。恐らく、近代の歴史家が伏見城の遺構の存在を強調するため、御殿全体に呼称を拡大したものが広まったのだろう。本丸御殿の南側は「表向」と呼ばれ主に藩政に使用され、北側は「奥向」と呼ばれ藩主の住居に使用されていた。表向に含まれる「御殿」と「御風呂屋(現在の御湯殿)」は伏見城(京都府京都市)からの移築といわれる。

従来、本丸御殿に住んだのは近年まで初代藩主である水野勝成のみで二代勝俊からは三の丸東側に新たに御殿を築造し転居したとされていた。しかし、文献から総合的に判断すると実際には水野勝俊までは本丸に住んでいて、移り住んだのは三代勝貞からである可能性が高いと思われる。何れにしても、本丸御殿は藩主が三の丸に移ってあまり使われなくなったらしく、阿部三代藩主正右の時代には奥向の殿舎の大部分が取り壊されている。以後、廃城まで広間や台所など表向を中心とした建物は残されていたが、明治初期に御風呂屋を除く建物は全て撤去され、御風呂屋も昭和20年(1945年)に空襲で焼失して現在は表向部分の礎石が残るのみとなっている(他に本丸御殿のものとされる襖絵が2枚残されている)。

本丸御殿について記述した文献としては、「水野記」、「福山領分語伝記」、「備陽六郡志」、などがある。中でも、水野記は各部屋の間数と畳数まで記されており、最も詳細である。ただし、各部屋の数値を加算すると矛盾が生じるところもあり、誤りもあるようだ。領分語伝記では各殿舎の間数が記載されている。備陽六郡志では殿舎の間数に加えて、障壁画の種類など、各建物の様子が記されている。

ちなみに、本サイトの解説では、水野記の記述、本丸御殿指図、御殿跡の礎石、を照合して整合性を得た数値を用いている。そのため、領分語伝記、備陽六郡志の記述と異なる部分もあり、これらを採用した従来の福山城に関する他のサイトや書籍の解説とも異なることもある。しかし、根拠としては当サイトの方が有力だと考えている。また、御殿内部の様子については備陽六郡志の記述以外に資料がないので これをそのまま用いている。

本丸御殿配置図

本丸御殿配置図

下記は水野期「城中屋形畳敷数」の記述を筆者が現代文に直したものである。

城中屋形畳敷数

一、御殿上段(18畳敷)南北3間 南縁(9畳敷)南北1間半 下段(24畳)南北3間 下段西縁(9畳敷)南北3間 下段南縁(16畳敷)東西11間 後座敷上の間(18畳敷)南北3間 後座敷次の間(24畳)南北3間 後座敷次の間西縁(9畳敷)南北3間

一、御殿上り所(3畳半敷)

一、廊下(14畳敷)東西2間

一、皇帝の間書院上段(8畳)下段(5畳)南北2間半 上段南縁(13畳半)東西4間半 下段次の間(24畳)南北3間 次の間縁(12畳)東西4間 下段次の間西縁(4畳半)南北1間半(※1) 下段次の間西縁(9畳)南北3間 後座敷上の間(17畳)東西3間半 後座敷上の間東縁(11畳敷)南北5間半(※2) 後座敷上の間北縁(7畳)東西3間半 後座敷次の間(20畳)南北2間半 後座敷次の間北縁(10畳)東西5間 後座敷次の間西縁(10畳半)南北3間半

一、風呂屋揚場上段(16畳半)南北2間半 揚場下段(12畳)南北2間

一、書院から広間への廊下(20畳)南北2間

一、獅子の間上の間(19畳)南北3間 上の間南縁(12畳)東西4間 上の間東縁(6畳)南北3間

一、虎の間広間次の間(40畳敷)南北5間、次の間縁(12畳)東西4間 玄関南北4間 西縁(12畳) 西縁(7畳半)南北3間半 東縁(12畳)南北6間

一、鑓の間(22畳)南北3間 廊下(6畳)南北3間 次の間(15畳敷)南北2間

一、御殿廊下(10畳)

一、鑓の間(5畳半)南北3間 (21畳)東西3間

一、対面所桐の間(12畳)南北2間 次の間(※3)(26畳)南北3間半 東縁(12畳)南北6間 同次の間縁(9畳)南北5間

一、御居間上の間(8畳)東西3間 東縁(4畳)東西5間 三の間(36畳敷)南北5間 御居間次の間(18畳)東西3間 廊下(6畳)南北2間半 廊下(14畳)

一、御納戸(8畳)南北2間

一、御仏壇の間東縁(6畳)東西3間 (10畳)

一、長囲炉裏間上の間(※4)(8畳)

一、老中部屋(19畳)南北4間

一、用人部屋(10畳)南北2間 次の間(※5)(16畳)東西2間

一、御居間南縁(20畳)東西6間 廊下(8畳)

一、長囲炉裏間(※6)(20畳)

一、奥御寝間上の間(12畳)南北2間 (※7)次の間(15畳)南北2間 御納戸次の間(15畳)南北1間 御納戸上の間(12畳)南北2間 次の間小縁(6畳)

一、御湯殿揚所(7畳)東西2間

一、奥御茶の間(48畳)東西4間 同廊下(8畳)南北2間 同廊下(2畳)

右の他にある座敷は略して記さない。

元和5年より福山城を築き始め同8年に築き終わったのでお礼のために日向守(※8)は江戸へ下向した。

※1.原文では、ここに「下段次の間縁(12畳)東西4間 下段次の間西縁(4畳半敷)南北1間半」の記述が入るが、前の記述と重複しており、誤記だと思われるので、省いている。
※2.原文では、ここに「縁」が入るが、前後の記述から判断すると不自然なので、省略している。
※3.原文では、「次の間」はないが、直前の二間(にけん)と二間(にのま)を混同したものと判断して付記した。
※4.原文では、「長囲炉裏間上」であるが、前後関係から「上の間」だと思われるので、付記している。
※5.原文では、「次」であるが、前後関係から「次の間」だと思われるので、付記している。
※6.原文では、「囲間裡間」となっているが、誤記だと思われるので、訂正している。
※7.原文では、「上の間(12畳)」の記述が入るが、前の記述と重複しており、誤記だと思われるので、省いている。
※8.水野勝成のこと。

 - 本丸