東坂口門
東坂口門は天守東側の二の丸下段と二の丸上段とを結ぶ櫓門である。門の左右には鹿尾菜櫓と東坂三階櫓が建てられ、それぞれ多聞櫓で繋げられていた、あるいは両櫓を繋ぐ多聞櫓の間に設けられた門と言い換えられるかもしれない。いずれにしろ、東坂口門は二つの櫓に守られた極めて強固な城門であった。
門の周囲は築城から特に施設もなく樹木の繁る空地となっていた。枡形も設置されていなかったが、門の手前には凸の字に突出した石塁が組まれ門への直進を阻んでいた。そして、この南側は二の丸上段の塁線から東坂口門方向に横矢掛けとなっていて、その上の本丸も同様に横矢掛けとなっていた。このため、実質的には枡形に匹敵するか、それ以上の防御力を持っていたようである。ただ、東坂口門の直下は二の丸と三の丸とを結ぶ道路が緩い坂道で直に繋げられ、これより北側は内堀も掘られていないなど、手前までは三の丸から容易に進入できるようになっていた。また、東坂口門を直前で避けて北に進めば五千石蔵まで容易に辿り着くことができる(現在は途中が削り取られできない)など、周囲は脆弱性を抱えていた。
二の丸の東側に堀がない理由はよくわかっていない。資金不足等により中止されたのか、地盤の関係で堀を掘ることができなかったのか、あるいは籠城時には何らかの進入を防ぐ方策が考えられていたのかもしれない。尚、備陽六郡志では門の外側に井戸が設けられていたといわれるが、その位置はわかっていない。
東坂口門は明治初期に取り壊され写真や図面も残されていないので、正確な形状は分かっていない。門の手前(二の丸下段)には明治8年(1875年)に東坂口門の手前から本丸まで直線で結ぶ階段が造られ、その周囲は民間に売却され昭和時代までに民家が建ち並んでいた。これらは昭和20年(1945年)の空襲で殆どが焼失して、戦後に再建されるものもあったが、市により徐々に買収され現在までに公園へと姿を変えている。また、門を潜った二の丸上段は昭和時代には草木が生い茂る広場となっていたが、戦後は公園となり昭和53年(1978年)に水野勝成像が建てられた。
ところで、明治時代に東坂口門前に設置された階段は本来は二の丸から本丸へは西側からしか入ることができないので、東側からのアクセスに現在も非常に有用なものであるが、城郭としての趣は著しく損ねている。そこで当サイトとしては二の丸上段から本丸への階段は残して二の丸下段の階段は撤去することを提案したい。そうすれば、二の丸上段へは東坂口門を経由することになり、利便性と遺跡の保存・活用を両立できるだろう。本丸へは若干の迂回にはなるが、現在よりも城としての魅力は遙かに高まるはずである。