櫛形櫓・鑓櫓・鉄砲櫓
櫛形櫓は大手筋を三の丸から二の丸に登る石段に沿って建てられていた二層の櫓である。櫓の東側には「鑓櫓」と呼ばれる附櫓が付けられ、鑓櫓の東側には更に「鉄砲櫓」と呼ばれる平櫓が接続されていた。
櫛形櫓は神辺城から移築されたといわれるが、伏見城からの移築との伝承もある(西備名区)。鑓櫓、鉄砲櫓の名称は櫓内に収納した武具に由来すると思われる。櫛形櫓には具足が収納されたといわれており、阿部末期の記録には「城付武具」が収納されたと記されている。この記録は福山藩が幕府へ城付武具が焼失したことを報告したもので、失った武器の数量が詳細に記されている(こちらを参照)。
櫛形櫓は第二次長州征伐の準備に際して焼失しており、各文献を総合すると次のような様子であったようだ。慶応元年(1865年)11月12日午後8時ごろ、櫛形櫓から作業を終えた藩士が引き上げたあと、原因は不明だが櫓内に保管された火薬に火が付いて、櫛形櫓が大音響と共に爆発し鑓櫓や鉄砲櫓と共に炎上する。この衝撃で櫓の背後に隣接する坂上番所は倒壊して番士1名が即死する。また、櫓内の武器は周囲に飛び散り雨のように降り注いだ。更に内堀を挟んだ向かいにあった家老下宮三郎右衛門屋敷の門は大破して、城下の家屋も戸や障子が倒れた。そして、轟音と燃え上がる櫓とで城下は大混乱に陥り藩主も城下南端の誠之館(藩校)に避難した。炎は2時間後の10時過ぎに収まるものの、このとき失われた武器は洋式銃(ゲベール銃)530挺を始め水野時代から引き継がれた大筒2挺や旧式鉄砲(和流筒)120挺を始め、槍170筋、具足90領、等々、多数に及んだ。この様子は城から5kmほど離れた市村(現:蔵王町)からも確認され、地響きとともに空が赤色に染まったという。
福山城で櫓を失うのは、記録では築城後初めてのことである。通常、火薬は城下北側(吉津川対岸)の煙硝蔵と呼ばれる極めて堅牢な専用の蔵に収められるはずであるが、櫓内、それも本丸直下に保管されたのは恐らく出兵の準備による特別な措置だったのだろう。その後、櫛形櫓は再建されることなく明治時代を迎えて跡地は個人に売却され料亭や宅地として使われることになった。そして、昭和10年(1935年)に櫛形櫓のあった周囲は鉄道省に買収され、線路の拡張により地面は削り取られ櫓の遺構は跡形もなく消失した。現在その位置は福塩線の線路となっている。
櫛形櫓は明治以前に失われ図面なども残されていないため正確な形状はわかっておらず、今日の解説や復元は絵図などから想像されたものである。ただし、鑓櫓は複数の絵図で二層に描かれているが、この点は殆どの復元で無視されている。
余談だが、櫛形櫓と共に焼失した武具で最も新式なのはゲベール銃であるが長州藩の装備には太刀打ちできるものではなかった。