備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

神辺城(村尾城)

   

国道128号線から見た神辺城跡

国道128号線から見た神辺城跡

所在地

広島県福山市神辺町大字川北 【地図】

解説

神辺平野は弥生時代の遺跡が多く残り県内屈指の古墳集積地でもある、古代から備後地方の要衝であった。神辺城はこの平野の南端に位置する黄葉山(標高222m)の山頂に築かれた山城である。

神辺城の歴史は古く、南北朝時代に備後守護職に任じられた朝山次郎左衛門景連により建武2年(1335年)に築かれたとされる(備後古城記)。ただ、このことを記す記録は備後古城記のみで、その成立は江戸時代に入るため記述の信頼性は高いとはいえず、当時の情勢などを考慮すれば実際の築城時期は伝承より後年の可能性が高いようである。また、城名が神辺城となったのも16世紀末以降であり、それまでは「村尾城」と呼ばれていた。しかし、このことは多くの書籍に触れられておらず、現在も誤った俗説が広まったままとなっている。

村尾城(現:神辺城)が築かれた理由は山陽道(後の西国街道)と密接な関係があると思われる。当時の山陽道は備中国の高屋(現在の井原市高屋町)から西に延び神辺町に入って備後国府のあった府中(府中市)へと通じていた。そして、村尾城の築城はこのルートを押える目的があったと考えられている。ただし、築城当初の位置は現在と異なっていた可能性が指摘されている。それは、現在地の東側に「古城」と呼ばれる土地があり、ここに室町時代前後の特徴を持つ城跡があるからである。ともかく、村尾城は築城後、備後南部の重要な拠点であったようであるが、正確な実態は文献が少なくわかっていない。この後、村尾城が歴史の表舞台に登場するのは戦国時代になってからである。

応仁元年(1467年)に勃発した「応仁の乱」に呼応して中国地方の雄であった尼子氏と大内氏の争いが起こると、尼子氏と結んだ当時の備後国守護「山名忠勝」は大内氏と手を結んだ「杉原理興(ただおき)」に攻められた。杉原理興の出自については確度の高い資料がなく文献により記述が錯綜しているので正確にはわからないが、八尾(府中市)と山手(福山市)に杉原姓の国人がいるので、このどちらかだとは考えられている。ただ、地政学的見地から見ると、この時期に前後して山陽道が高屋から府中方向に直線的に進むのではなく、神辺で南に折れて紅葉山(神辺城)の北縁を通り海沿いの山手町・尾道へと通じるルートへと変更されており、杉原理興が八尾を本拠とした場合は府中から神辺へ山陽道が南下するのに伴って神辺に進出していったと、より自然に考えることができる(しかし、「福山市史」で山手説が採用されたため、今日、多くの書籍で山手説が採られている)。

ともかく、天文7年(1538年)に忠勝が敗走すると、杉原理興は村尾城を拠点に後南部を支配して、「山名」姓を名乗ることになった(残太平記・大内義隆記)。この改姓の理由は記されていないが、守護職であった山名氏の後継をアピールする狙いがあったのだろう。そして、村尾城は理興の居城として大きく改修されたといわれており、神辺城の原型はこの時代に築かれたようである。

その後、尼子氏と大内氏の争いが尼子氏の優勢に傾くと、理興は天文11年(1542年)に尼子氏へと寝返るが大内氏は勢力を取り戻して、今度は大内氏が杉原氏を攻めることになった。天文12年(1543年)末、大内勢は陶隆房(後の陶晴賢)の兵5000人を始め毛利元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、平賀隆宗などを加えた計8000人を動員し備後へと進出した(ただし、この兵力は誇張だと思われる)。この戦は俗に「神辺合戦」と呼ばれ長期戦となったが、山名氏側(尼子勢)は徐々に拠点を落とされ勢力を失っていき、天文16年(1547年)に神辺城への総攻撃が開始されることになった。しかし、尼子氏の支援や山名氏の抵抗も激しく落城には至らず、大内勢は平賀隆宗を残して撤退することになった。

平賀隆宗が神辺に留まったのは理興を恨む隆宗の強い申し出によるとされている(陰徳太平記、巻17)。怨恨の理由は文献に記されていないが、恐らくは隆宗が支配した坪生荘(福山市)を理興が奪ったことが関連しているのだろう。しかし、隆宗の兵力は少なく(800人と伝えられる)村尾城の向かいに城(要害山城)を築いて睨み合う状態が続いたが、天文19年(1550年)(安西軍策、巻2では天文18年となっている)、理興は尼子氏の本拠である富山(鳥取県)へと逃走した(陰徳太平記、巻17)。この際、「陰徳太平記」では理興と隆宗が神辺城を賭けて互いを的に弓を打ち合い負けた理興が城を明け渡したことが記されているが、これは話が出来過ぎており、陰徳太平記には脚色が多いことが知られているので、作り話だと思われる。別の資料(平賀家文書)では平賀隆宗は村尾城落城の2ヶ月前に死去したと記されているので、実際には隆宗の弔い合戦に及んだ平賀勢の猛攻により落城したようである。

理興の去った村尾城は大内氏の重臣である青景隆著(あおかげたかあきら)の支配となったが、弘治元年、理興が毛利元就(このとき元就は大内氏の後を継いでいる)に恭順すると村尾城は理興に与えられ、理興は姓を杉原に戻した。しかし、理興は2年後の弘治3年(1557年)に死去する(陰徳太平記、巻2)。このとき、理興には嗣子がなかったため、家督は家老の杉原盛重が継ぐことになった。この相続の後ろ盾となったのが毛利氏重臣の吉川元春で(陰徳太平記、巻69)前述の神辺合戦での勇猛ぶりを認めて推挙したとされる。ちなみに、「萩藩閥閲禄、巻6」では盛重は理興の次男と記されているが、これは杉原氏の子孫が提出した家譜を収めたもので、後年の加筆である可能性が高いと考えられる。

毛利元就の配下となった杉原盛重は備後で勢力を拡大させつつ毛利氏の戦に参加して数々の功績を挙げることになった。盛重の留守中は村尾城の城代を重臣「所原肥後守(名は不明)」が務めていたが、永禄12年、盛重が筑前国立花(福岡県)に出兵していたとき、理興の旧臣で盛重の杉原家相続に異を唱え野に下った藤井皓玄が謀反を起こし村尾城を占拠した。尚、このときの村尾城の守備は30人に過ぎなかったという(後太平記、巻38)。しかし、城は2ヶ月も経たないうちに盛重に奪い返され、逃亡した藤井皓玄は備中国大島(岡山県)で自刃した(備中府志)。そして、天正9年(1581年)に盛重が死去すると、子の元盛が後を継ぐが、元盛は天正10年(1582年)に弟の景盛によって殺害される。しかし、毛利元就はこれを許さず村尾城から景盛を追放し天正12年(1584年)に滅ぼした。それから村尾城は毛利氏の直轄とされ譜代家臣が交代で城番を勤めることになった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属した毛利氏が改易されると、安芸・備後は福島正則に与えられる。なお、このころまでに城名は神辺城に変えられていたようである。神辺城は福島氏の筆頭家老の福島丹波守正澄に与えられ、城番は弟の福島玄番が勤めた。このとき城はかなりの整備が行われたようで、発掘調査や福島氏の他の支城から判断すると、多数の櫓を持つ近世城郭に近い形態に整えられたようである。そして、元和元年(1615年)の「一国一城令」により神辺城は廃城になったはずであるが、一国一城令はそれほど徹底されたものではなく、後述するように後に移築された伝承を多く建物が多く存在するので、少なくとも部分的には施設が残されたようである。

そして、元和5年(1619年)に福島正則の改易により備後国は水野勝成に与えられるが、勝成は別の場所に新たな城と城下町(福山)を築いたので、神辺城は完全に放棄され神辺は備後地方の中心地の座から外れることになった。このとき神辺城の建物は新城(福山城)に移されたと伝えられており、文献によって扱いが異なるが、福山城の一番~四番の神辺櫓、櫛形櫓、鬼門櫓(いずれも現存せず)などが移築の伝承を持っている。また、北吉津町(福山市)にある実相寺の山門も神辺城の門を移したと伝えられている。これらの伝承が事実であれば神辺城は極めて壮大な城で一国一城令後もかなりの部分が残存していたことになる。ちなみに、福山城築城に際し神辺城下の寺社も多くが福山へと移転させられており、神辺の城下町はかなりの衰退があったはずであるが、この時期には物流の主力は陸運から海運へと移行しつつあったので、神辺の衰退はそれ以前から始まっていたのかもしれない。ただ、その後も神辺は西国街道(山陽道)の宿場町として明治時代まである程度の地位は保つことになった。

神辺城は廃城後も現代まで備後地方有数の古城として地元に広く知られていた。しかし、昭和47年(1972年)、神辺町により神辺城跡に公園が建設されることになり、工事が開始された。これ以前に神辺城は史跡指定の要望もあったので、そうした声を無視した開発は当時の神辺町にとって神辺城の史跡としての価値がいかに低かったかがうかがえる。これにより第二、第三郭周囲は遺構を確認しないまま破壊されたが、昭和52年(1977年)2月末に地元住民の通報により県の教育委員会職員が派遣され神辺町との協議が行われることになった。その結果、工事の終了した部分については現状を認めるが、整備の始まっていない部分については発掘調査を行い、その結果によって今後の取り扱いを協議することになった。

この間、神辺町の歴史民族資料館の建設候補地として主郭(本丸)が浮上したので、主郭の発掘調査も併せて行われることになった。その結果、主郭で多数の遺構が検出され計画は見直されることになる。そして、資料館は神辺城脇の現在地に建てられた。このような経緯からもわかるように、あと少しで事前調査なしに主郭に資料館が建設されるところで、そうであったなら、恐らく全国に多く見られる中世山城の跡に模擬天守がそびえるというパターンが神辺でも繰り返されていたことになる。実際、歴史民族資料館は近世城郭風の建築にされ、こちらを神辺城と勘違いするひとも多いようである。それを考えると、破壊が第二、第三郭に留まったのは不幸中の幸いといえるが、工事がなければ明らかにできたであろう情報、特に神辺城から福山城に移築されたと伝わる櫓の実態などを知る機会が永遠に失われたことは悔やまれる。

現在の神辺城は前述のように公園として整備され保存状態はあまりよくない。石垣も福山城の築城で殆どが転用されたと思われ僅かにしか残されていない。それでも、曲輪のおおよその構成は伺うことができ、往時の面影をある程度は偲ぶことができる。また、城の東側にある資料館までクルマで登ることができるので、山城としては極めて容易に訪れることができる(ただし、公共交通機関での来訪は難しい)。周囲は樹木が伐採され定期的に草刈りも行われているので、頂上からは神辺市街を一望でき神辺平野からも曲輪の段々を確認することができる。城跡周辺には桜が植樹され春には多くのひとが花見に訪れており、福山市では福山城に次いで市民に広く知られた城跡となっている。

文献:神辺城発掘調査報告(神辺町教育委員会)1977年、神辺の原点村尾郷(備陽史探訪138号)2007年

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