福山の寺社
福山城下の寺社は築城初期において32ヶ所あったといわれる。これらは他の多くの城下町と同様に籠城時には総構の防衛を担う目的を有していたので、城下への入口(街道)に集中して配置されていた。また、陰陽道の守護を目的として鬼門(北東)や裏鬼門(西南)にも配されていた。ただ、寺社地の整備は城下町と構築と共に段階的に進められたので、城の完成から各寺社が整うまで相当の期間を要しており、築城開始~寛永中期にかけての十数年間は新たな寺社が次々に林立する状態となっていたようだ。また、その後も城下の拡大や火事などにより各所で寺社の移転が繰り返されたので、最終的に配置が確立するのは寛文頃のようである。
下記に寺社の由来をまとめてみた。この説明は福山市史(中)の「寺院由緒抜粋」を基本として、「水野記」、「福山領分語伝記」、「備陽六郡志」の記述と独自の調査に基づいている。ただし、各文献の記述に差異のある箇所は寺院由緒抜粋を優先し、記述が矛盾する場合はその記述は省いている。他に「福山志料」にも城下の寺社に関する記述が見られるが、内容の確度が他より低いので当サイトでは全く参考にしていない。なお、名称の横の()は各寺社の現在の住所(町名)であるが現在存在しないものについては記入していない。
神社
勇鷹神社
(丸の内町)
阿部氏江戸藩邸にあったが、文化9年(1812年)に藩主阿部正精により福山城背後の松山に移されたといわれる。明治15年(1882年)に「阿部神社」と改称される。現在の「福山護国神社」。
艮神社
(北吉津町)
福山城の鬼門守護のため建立されたといわれる。観音寺の西に隣接する。
五穀神社
(住吉町)
宝暦7年(1757年)に城下南東端の入川沿いに建立されたといわれる。現在は天神社、住吉神社と並祀されている。
新営八幡宮
(北吉津町)
天和3年(1683年)に水野家四代藩主水野勝種により城下南東の延広八幡宮と城下南西の野上八幡宮が吉津川北岸(上田玄蕃下屋敷)に併設して移されたもの。「両社八幡宮」ともいう。現在の「福山八幡宮」。
住吉神社
(住吉町)
城の背後(松山)にあって「天神社」と呼ばれていたが、慶応4年(1868年)の長州軍の攻撃に際して境内が築切(胸壁)の構築により掘削されたため入川沿いの「五穀神社」南隣に移され現在は天神社、五穀神社と並祀されている。
惣堂八幡宮
(なし)
福山城築城のとき建立され、寛永18年(1641年)に火事により神島町下市(現在の延広町)に移されたという。その後、城下南東(現在の住吉町)に移転したといわれる。寛文2年(1662年)に水野家家臣による騒動のため(惣堂→騒動)「延広八幡宮」と改称される。この騒動は「水野家家中騒動」といわれ、水野勝貞死去のとき起きた勝貞側近と譜代家臣との対立である。なお、現在ある「宮通り」(現在の天満屋南側)はこの神社の名残といわれている。
聡敏神社
(北吉津町)
福山藩初代藩主水野勝成を奉ったもの。二代藩主の水野勝俊が城内に建立したといわれる。享保5年(1720年)に阿部正福により新営(両社)八幡宮の裏に移されたという。
天神社
(なし)
諸説あるが、福山城築城のとき城の鎮守のため城の背後(松山)に建立されたといわれる。「松山寺」が同じ敷地にあったという。明治維新のとき五穀神社に隣接する入川沿いの城下南東端(新町)に移され、現在は住吉神社、五穀神社と並祀されている。
野上八幡宮
(なし)
天文年間に当時の備後の領主であった杉原盛重によって常興寺山(現在の福山城)に建立され、福山城築城のとき野上口(城下南西)に移されたといわれる。天和3年(1683年)に城下南東の延広八幡宮とともに吉津川北岸(松山)に移転され「西の宮」と呼ばれる。
延広八幡宮
(なし)
寛文2年(1662年)に惣堂八幡宮から改称される。天和3年(1683年)に城下南西の野上八幡宮とともに吉津川北岸の松山に移転され「東の宮」と呼ばれる。読みは「のぶひろ」
寺
安楽寺
(なし)
浄土宗寺院。弘治3年(1557年)に神島で建立され「法然寺」と呼ばれていたが、元和7年(1621年)に城下南側(神島町)に移されたとされる。神島町では妙法寺が対面にあったといわれる。承応頃、城下南東の下屋敷に隣接する位置に移されたようだ。
一心寺
(寺町)
浄土宗寺院。詳細はわかっていないが、定福寺以降(元和7年~)に建てられたといわれる。城下東側(寺町)にあり、浄願寺と最善寺に挟まれていた。笠岡街道に北面していた。
永雲寺
(住吉町)
臨済宗寺院。天正年間に神辺城下(福山市)に建立され、寛永年間に城下南西端に移されたといわれる。享保19年(1734年)に笠岡町から出火した火事によって客殿や観音堂などが焼失し元文3年(1738年)に再建されたとわれる。
永徳寺
(なし)
享徳元年に建立され、八幡宮東の宮~龍興寺~妙政寺辺りまでが境内であったといわれる。福山城築城までには衰えていたようだ。
円光寺
(なし)
真言宗寺院。福山城築城後、奈良屋町(現在の霞町)に建立されたと思われる。承応4年(1655年)に草戸の「常福寺」(草戸町)に統合され「明王院」と改称されたという。
観音寺
(北吉津町)
真言宗寺院。福山城築城後、深津(福山市)から吉津に移したといわれるが、草戸(福山市)からともいわれている。艮神社と妙政寺に挟まれる。
賢忠寺
(寺町)
曹洞宗寺院。寛永3年(1626年)または元和8年(1622年)に建立されたといわれる。水野勝成が父忠重の菩提を弔うために造られたとされ、勝成、勝貞、勝種の菩提寺。城下東端(寺町)に建てられ、笠岡街道に南面していた。
光照寺
(野上町)
山南(福山市)の光照寺の支坊として城下南側に建立されたとされている。鞆街道に東面し正蓮寺に隣接していた。
弘宗寺
(桜馬場町)
臨済宗寺院。福山城築城まで神辺(福山市)にあったが、寛永年間に福山城の鬼門守護のため吉津川北岸の永徳寺跡(現:妙政寺)に移されたという。寛文6年(1666年)に城下北東端(東町)に移される。
光政寺
(寺町)
法華宗寺院。福山城築城以前は三河狩屋(愛知県)にあって「一乗寺」と呼ばれていたという。元和6年(1620年)に城下東側に移され改称したといわれる。賢忠寺と大念寺に挟まれ、浄願寺の対面にあった。笠岡街道に南面していた。読みは「こうしょう」。
光善寺
(東町)
浄土真宗寺院。神辺に建立されたといわれる。寛永年間に城下東側(寺町)に移されたという。寂円寺、洞林寺に挟まれる。
光明寺
(旭町)
浄土真宗寺院。福山城築城以前は津之下(大門町)にあったが、寛永5年(1628年)に城下北東(現在の東町)に移されたという。その後、深津口外側に移される。笠岡街道に南面していた。
最善寺
(寺町)
浄土真宗寺院。福山城築城以前に神島(芦田川西岸)にあったが、築城後、本橋南の神島町(現在の船町)に移されたといわれる。後年、城下東側(寺町)に移転されるが「最善寺」の地名は神島町に残されたという。寺町では一心寺と道証寺に挟まれ賢忠寺の対面にあった。笠岡街道に北面していた。
実相寺
(北吉津町)
法華宗寺院。寛永10年(1633年)に家老上田玄蕃により吉津の郊外に建立されたといわれる。家老上田家の菩提寺。寛文6年(1666年)に妙政寺から本堂が移築されたといわれている。
定福寺
(西町)
浄土宗寺院。慶長年間に水野勝成の妻の菩提寺として三河狩屋(愛知県)に建立されたといわれる。水野勝成の転封とともに、狩屋→大和郡山→福山と移ったとされる。元和7年(1621年)に城下北西端に建てられる。長者口に南面していた。天領の時代に下屋敷(城下南端)の弁天堂が境内に移されたという。阿部氏の時代に藩の菩提所となっている。
浄願寺
(御船町)
浄土真宗寺院。元和6年に岡崎(愛知県)から移され、万治年間に城下東側(寺町)に移転されたという。一心寺に隣接し光政寺の対面にあった。笠岡街道に北面する。
常興寺
(なし)
天正頃に福山周辺の領主であった杉原氏により建立されたといわれる。福山城築城以前に現在の本丸周囲にあったとされ、本丸の丘陵が常興寺山と呼ばれていたのはこの寺に由来するといわれている。
松山寺
(なし)
真言宗寺院。詳細はわからないが、慶安年間に城の背後(松山)に建立されたという。「天神社」の敷地にあったといわれる。
承天寺
(松永町)
万治元年(1658年)に城下西端(中尾又四郎下屋敷)に建てられたという。寛文8年(1668年)に松永に移転されたといわれる。(本庄家文書より)
松林寺
(長者町)
臨済宗寺院。寛永年間に吉津川南岸の城下北西端外側(長者町)に建てられたといわれる。その後、惣構の拡張により長者町と共に城下に組み込まれる。
正蓮寺
(光南町)
浄土真宗寺院。藤江(福山市)にあったが寛文年間に道三町(現在の野上町)に移されたという。鞆海道に東面し光照寺に隣接していた。
寂円寺
(東町)
浄土真宗寺院。元和9年(1623年)に三河(愛知県)から移されたという。城下東端(寺町)にあり光善寺に隣接していた。水野家の断絶後は衰えて延享2年(1745年)の火事により類焼して困窮したといわれる。三吉口に南面していた。
信行寺
(旭町)
浄土真宗寺院。引野(福山市)にあったが寛文頃に三吉に移されたという。城下東側の深津口外側にあり笠岡街道に近接していた。
泉龍寺
(霞町)
曹洞宗寺院。三河狩屋にあったが、水野勝成の転封と共に狩屋→大和郡山→福山と移ったといわれる。寛永7年(1630年)に城下南西に建てられたとされる。家老中山家の菩提寺。草戸道と山田海道の交差点に近接し妙連寺と野上八幡宮に挟まれていた。
胎蔵寺
(北吉津町)
真言宗寺院。福山城築城まで神辺(福山市)にあって、「西福寺」と呼ばれていたという。築城後、鬼門守護のため吉津川北岸の山腹に移され改称したといわれる。その際、常興寺の本尊を移したと伝えられている。
大念寺
(東寺町)
浄土宗寺院。福山城築城まで神辺(福山市)にあって、「万念寺」と呼ばれていたという。築城後、城下東側の寺町に移され改称したといわれる。総門は神辺城から移築したと伝えられている。賢忠寺、光政寺、洞林寺に隣接する。笠岡街道に南面していた。
長正寺
(吉津町)
法華宗寺院。寛文7年(1667年)に家老上田玄蕃の三男(陣之丞)によって尼崎(兵庫県)から吉津に移転されたといわれる。城下北東外側、藪路街道に近接する。法真寺に隣接する。読みは「ちょうしょう」。
通安寺
(西桜町)
法華宗寺院。詳しい由来はわからないが、中世備後の豪族渡辺氏に縁があったといわれる。寛文年間に建立されたという。城下西端にある。
道証寺
(寺町)
浄土真宗寺院。三河(愛知県)にあったが、寛永年間に城下南側に移されたという。後に城下東側(寺町)に移転されたといわれる。城下東端にあり最善寺に隣接していた。笠岡街道に北面していた。
洞林寺
(東町)
浄土宗寺院。福山城築城まで神村(かむら・福山市)にあって、「龍雲寺」と呼ばれていたという。元和5年(1619念)に城下東側(寺町)に移され改称したといわれる。延享2年(1745年)に柳町(位置不明)から出火した火事により、本堂、庫裏、方丈などが焼失したという。大念寺の北側に隣接する。
能満寺
(西町)
真言宗寺院。詳しい由来はわからないが、福山城築城以前は常興寺山にあって中世備後の豪族杉原氏に縁があるといわれる。築城時、福山城の裏鬼門守護のため城下西端に移されたといわれる。
法真寺
(吉津町)
浄土真宗寺院。元和6年に池田(沼隈町山手)から移したといわれる。城下北東外側、藪路街道に近接する。長正寺に隣接する。
法華寺
(なし)
城下西端、詳細は不明だが通安寺と龍渕寺の間にあったといわれる。敷地は通安寺に取り込まれたといわれる。
妙政寺
(北吉津町)
法華宗寺院。天正年間に狩屋に建立されたという。家老上田家の帰依を受け水野勝成の転封とともに、狩屋→大和郡山→福山と移ったとされる。寛永年間に城下東側(東町)の寂円寺前に建てられ、寛文6年(1666年)に吉津川北岸(弘宗寺)に移設されたといわれる。その際、旧本堂は実相寺に移築されたと伝えられる。水野勝俊の菩提寺。読みは「みょうしょう」。
妙法寺
(南町)
法華宗寺院。福山城築城以前は野上(福山市)にあったが、元和6年(1620年)に城下南側(神島町)に移されたといされる。神島町では安楽寺が対面にあったといわれる。承応年間に城下南東に移されたという。
妙蓮寺
(なし)
浄土真宗寺院。水野勝成の母(法正院)の菩提寺として狩屋に建立されたといわれる。水野勝成の転封とともに、狩屋→大和郡山→福山と移されたという。寛永年間に城下南西(現在の紅葉町)に建てられ泉龍寺に隣接していた。泉龍寺とは大和郡山においても隣り合っていたといわれる。近年、水呑町(福山市)に移転した。
龍渕寺
(なし)
臨済宗寺院。寛永頃に城下西端(現在の西町)に建立されたといわれる。水野勝成の庇護を受けるが、檀家も少なく開基から寂れていたという。松平時代に東林寺が置かれ修復を受けるが、松平氏の転封で再び寂れて、元文4年(1739年)に盗賊が押し入り和尚と小坊主の2名が殺害されてから無人となり荒廃が進んだといわれる。通安寺と能満寺に挟まれていた。
龍興寺
(北吉津町)
曹洞宗寺院。福山城築城以前は神辺(福山市)にあって、「龍泉寺」と呼ばれていたという。築城時に永徳寺跡(吉津川北岸)に移され改称したといわれる。その際、常興寺の地蔵堂を境内に移したと伝えられる。福山城の真北、吉津川北岸の山腹にある。