筆頭家老屋敷
かつての三の丸西側、現在の広島県立歴史博物館及びその前庭の一帯は筆頭家老屋敷の敷地となっていた。ただ、築城初期においては福山城最古の絵図とされる「正保城絵図」に「隠居屋敷」と記入されていることから、初代藩主水野勝成の隠居後の住いであったと考えられている。しかし、それ以前、水野勝成が藩主であった福山城の極初期においては、この場所がどのような施設があったかは資料がなく定かではない。勝成死後の歴代居住者は水野時代が筆頭家老「上田玄蕃」、松平時代が筆頭家老「山田主水」、阿部時代は城代家老「佐原作右衛門」である。
ところで、勝成以後の水野家歴代の藩主は何れも在任中に死去したため隠居することはなかったが、仮に隠居する場合はこの屋敷が家老屋敷として使われているのに、どこに住まう予定だったのだろうか?実は、この点が考慮された上でこの屋敷が家老に与えられたようである。というのは、二代藩主水野勝俊は城下に下屋敷(別荘)を建てており、三代藩主勝貞は居所を本丸から三の丸に移している。そして、このどちらかを隠居屋敷に用いることができるはずだからある。つまり、隠居屋敷の代替する施設の目処が立ったため、三の丸の屋敷が筆頭家老に与えられたと思われるのである。
筆頭家老屋敷の様子は資料が少なく今日ではよくわからない。廃城後、建物は取り壊され、しばらく桑畑となっていたが、明治37年(1904年)に「福山女子尋常小学校(現:福山市立西小学校)」が跡地の南側に移転され、明治39年(1906年)にはその校舎の北棟(北校舎)に「福山町立福山女学校(現:広島県福山葦陽高等学校)」が設立された。その後も昭和時代まで周囲の石垣と堀は残されていたが、昭和11年(1936年)に学校の運動場拡張によりこれも埋められることになった。この時点で福山城における堀の遺構は外堀・内堀含めて完全に消滅することになり、当時もその消滅を惜しむ声がった。
そして、昭和20年(1945年)に本館を除く校舎が福山空襲で焼失するものの、戦後も敷地は引き続き学校として使われた。ちなみに、空襲で焼け残った校舎は学校の移転まで存在していた。しかし、高校の位置は駅に隣接する一等地であることなどから校舎を郊外に移転させ跡地を再開発する計画が持ち上がり、葦陽高校は昭和57年(1982年)に移転させられた。跡地はしばらく「草戸千軒研究所」として使われつつ再開発を待っていたが、昭和62年(1987年)から博物館の建設が始まることになった。これに先立ち発掘調査が行われ、外堀の石垣や屋敷の土塀、苑地などが検出された。これらの遺構の保存を望む声もあったが、計画は進み、これらの遺構は破壊された。ただし、苑地に一部のみは博物館の庭に移転されている。
こうしたエピソードは他のページと重複することになるが、あえて繰り返せば、博物館の建設が「文化の不毛な街」というレッテルを貼られた福山市にとって待望されたものであったにもかかわらず、その実態は容易に変化しないことを端的に示している。実際、平成になってからも福山城の遺構が次々に発見されているが、良くて部分的な保存に留まり何れも破壊されている。
その範囲は現在の博物館と北側の駐車場及び広場を含んでいた。
歴史博物館正門の石畳に屋敷の塀跡を示すラインが引かれている。建物をもう少し北にずらせばこの遺構を保存・活用できたのだが…
壁面に解説があるが予備知識なしにこれに気付くひとは殆どいないだろう。
壁は正面の茂みの辺りで左に折れその先で門になっていたと思われる。
博物館を裏に周ると南西の角に塀跡を示すラインが引かれている。
植込みの横に解説がある。
博物館入口の南側に屋敷内の苑池が部分的に移設されている。本来はこの場所から約30m北西(博物館正面玄関周辺)に構築されていた。