筋鉄門
筋鉄門(すじがねもん)は桁行10間半×梁間3間の櫓門で「筋鉄」の名の通り扉の表面に細長い鉄板を縦方向に並べて打ち付けている。筋鉄門は「伏見城から移築されたもの」との説明がされていることがあるが、誤りである。というのも、江戸時代の資料に伏見城から移築されたと記述するものはひとつもなく、建物の構造も伏見城築城時(慶長期)の特徴を持っていないからである。この俗説が生まれたのは、筋鉄門が移築の伝承を持つ「鉄門」と混同されたからのようである。「鉄門」とは現在の福山駅構内の位置に存在した櫓門であるが、これが明治初期には失われたたためか、市井に忘れられたらしく、名称も似ているため、昭和初期には鉄門=筋鉄門という認識が広まっていたようだ※。そして、この誤解に基づいた解説は今日も根強く残されているが、実際は新規に建てられたと考えられている。
筋鉄門は本丸の防衛の要であり城の格式を示す意味でも極めて重要な門である。そのため、城門では最も堅牢とされる櫓門が採用され、門の表面は扉以外にも各所の部材が鉄板で補強されている。また、意匠は伏見櫓と揃えられ、建物の表面は総塗込めで押長と柱を見せた様式が採られている。ただし、押長・柱の突出は伏見櫓よりも控えめで、このことからも両者が異なる時期に造られた可能性が高いことが伺える。
筋鉄門の入口は高低差や敷地の関係からか正確な枡形の形状ではなく、枡形に近い虎口となっている。虎口は多聞櫓で囲われ筋鉄門と伏見櫓とを繋いでいる。筋鉄門の櫓部分への入口は正面左側の虎口の武者走りにあるが、往時はこの武者走りに多聞櫓が建てられていたので、現在のように外から門の建物に直接出入りすることはできず、多聞櫓を経由して出入りするようになっていた。また、筋鉄門の南面(右側)にも多聞櫓が設けられていたが、こちらは筋鉄門と内部は繋げられず、筋鉄門の番所に使われていた。尚、現在、番所の位置に多聞櫓風の休憩所が設けられているが、これは天守と同時に復興されたもので、形状は考証に基づいていない。
尚、同様の名称を持つ門として伊予松山城(愛媛県)が有名である。
※1917年(大正6年)年発行の「福山の今昔」や1918年(大正7年)発行の「備後商工史」では鉄門が移築されたと書かれており、誤解はこれ以後に生じたとがわかる。
櫓門部分の構成比率は正面から見て左側は3間、中央は5間、右側は2間となっている。