備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

築城の背景について

   

福山城は「一国一城令」により新たな築城が許されない時代にあって、例外的に築かれた、大規模な近世城郭としては最後の城といわれている。

そうした背景から、福山城は時代が強く反映された縄張り(設計)となっている。ひとつは、大阪の陣を教訓とした最新の戦術に対応していること。もうひとつは太平の世への過渡期といえる性質を併せ持つことである。

近世城郭と呼ばれる形式の城は安土城(滋賀県安土町)が始祖とされている。城郭研究家の中井均氏によると、安土城に始まる近世城郭の特徴として、「瓦」・「高石垣」・「礎石建物」を持つとしている。こうした城は「織豊系城郭」呼ばれていて、天正、文禄期(1573~1595年)に発展を遂げていく。このとき、「馬出し」、「枡形」、「横矢掛け」、「天守」といった近世城郭の基本要素が確立することになった。天正、文禄期の城郭の例として、豊臣期大坂城(大阪府大坂市)、聚楽第(京都府京都市)、豊臣期伏見城(京都府京都市)、名護屋城(佐賀県唐津市)、などがある。織豊系城郭が発達した理由として、細かくは様々な要因が指摘されているが、戦術的な面でいえば、群雄割拠の時代が終わり、大名単位での大規模な戦闘が主流になるなかで、施設の強固化、大規模化、恒久化が進んだからだといわれている。

ところで、古い本などには、戦乱の終わりにより、山城→平山城→平城と形態が変遷していったと記述されているものもあるが、これには多くの誤解が含まれている。というのは、いつの時代であれ、城郭は戦略上最も適すると判断される場所に造られるのであって、上記の違いは結果に過ぎないからである。戦乱期であっても平城は造られているし、近世の山城も存在している。近世城郭の多くが平地に造られたのは、戦術的、政治的、経済的に適した場所が平野部に多かったからである(※)。また、分類の基準も明確ではなく、なんとなく見た目で判断してるため、本によって記述が異なることもよくあり、平城に近い平山城や、山城に近い平山城といった、よくわからない表現もある。要するに、上記のように分類することに、あまり意味はないのである。
(※例えば、豊臣期の大坂城(平城?)は、大坂冬の陣において10万の軍で篭城し20万もの軍で包囲されているが、こうした大規模な篭城戦は山城では絶対に不可能なことである。また、大坂城はこの戦で難攻不落を証明しているが、大坂城を上回る難攻不落は山城では考えられない。)

築城技術が更に発展を遂げるのが「関ヶ原の戦い」の戦後処理、すなわち、徳川幕府の論功行賞による大名の大規模な配置換えによってである。この時期、新たな知行地を得た諸大名が相次いで居城の整備を進めたため、「慶長の築城ラッシュ」と呼ばれる、全国に新たな近世城郭が林立する状態となった。また、関ヶ原を戦いの前哨戦において織豊系城郭が相次いで落城したことから、これを教訓として城郭は更に進化を遂げることになった。具体的には、火砲、中でも大砲による攻撃、塹壕やトンネルなど土木工事を伴った攻撃、兵の損耗を前提とした強襲攻撃、といった新たな攻城術が想定されることになり、堀の広大化、水掘の多用、曲輪の大規模・単純化、高石垣、多聞櫓、などが進んでいった。さらに この時期、天下普請と呼ばれる徳川氏による諸大名を動員しての築城が頻繁に行なわれたため、各大名が最新の築城技術を会得し技術が広く普及する要因のひとつとなった。

近世の城郭構成の変遷を捉える好例が姫路城(兵庫県姫路市)である。姫路城の本丸・二の丸付近は1580年(天正8)年に羽柴秀吉によって築かれた縄張りを基本としていて、小規模で複雑な曲輪が連続する構成となっているが、1601(慶長6)年から池田氏により新たに築かれた西の丸、三の丸は、シンプルかつ非常に広大な曲輪の構成となっている。つまり、天正の城郭に慶長の城郭を融合した縄張りとなっているのである。そして、近世城郭の最も進化した形態といわれるのが、1609(慶長14)年から築かれた名古屋城(愛知県名古屋市)である。名古屋城は豊臣方の反撃を想定して徳川方の防衛拠点として築かれていて、当時、最新の技術が導入され、天下普請による莫大な費用が投入されている。そのため、極めて実戦的・合理的な構造を持っていて、曲輪はすべて巨大かつ直線的に構成されていて、堀、石垣、櫓などの防備も非常に徹底的となっている。このため、近世城郭最強の城との評価もある。

豊臣氏が滅亡して、徳川氏による幕藩体制が確立されると、差し迫った戦争の脅威はなくなり、近世城郭は斜陽を迎えていった。そして、「一国一城令(1615年)」によって、新規築城が禁じられ、改修にも幕府の許可が必要になると、近世城郭の時代は幕を閉じることになった。ただ、こうした中にあって、例外的に築かれた城もいくつかある。明石城(兵庫県明石市)、島原城(長崎県島原市)、そして、備後福山城である。これらは、徳川幕府に敵対する潜在的な可能性に対して、楔を打ち込む意味で造られていて、当然のことながら、幕府の意向が強く働いている。また、江戸中期には、赤穂城(兵庫県赤穂市)、幕末には、石田城(長崎県福江市)、福山城(北海道松前町)、五稜郭(北海道函館市)なども築城されているが、これらも全て幕府の意向によるのもである。

主要近世城郭築城開始時期表
西暦 元号 主な出来事 城郭名
1576年 天正4年 安土城、丸岡城
1577年 天正5年 浜松城
1578年 天正6年 加賀一向一揆鎮圧
1579年 天正7年 福知山城(明智期)、丹後田辺城
1580年 天正8年
1581年 天正9年
1582年 天正10年 本能寺の変・山崎の戦い 清洲城
1583年 天正11年 賤ヶ岳の戦い 大坂城(豊臣期)、金沢城、上田城(真田期)、甲府城
1584年 天正12年 小牧・長久手の戦い
1585年 天正13年 豊臣秀吉関白就任 徳島城、洲本城、岸和田城、和歌山城(豊臣期)、大和高取城、駿府城(徳川期)
1586年 天正14年 聚楽第
1587年 天正15年
1588年 天正16年 刀狩令発布 中津城、高松城、郡上八幡城
1589年 天正17年 広島城
1590年 天正18年 小田原征伐 岡山城、岡崎城(田中期)、伊勢亀山城、三河吉田城、掛川城、小諸城、松本城
1591年 天正19年 名護屋城、伏見城(豊臣期)
1592年 文禄元年 文禄の役 高島城、会津若松城
1593年 文禄2年 盛岡城
1594年 文禄3年
1595年 文禄4年 大洲城、犬山城(石川期)
1596年 慶長元年 慶長の役 宇和島城、大垣城(伊藤期)
1597年 慶長2年 大分城、丸亀城、富山城(前田期)
1598年 慶長3年 豊臣秀吉死去 新発田城、高崎城
1599年 慶長4年
1600年 慶長5年 関ヶ原の戦い
1601年 慶長6年 高知城 、福井城、熊本城、姫路城、福岡城、延岡城、岩国城、津和野城、鳥取城、膳所城、仙台城
1602年 慶長7年 今治城、伊予松山城、鹿児島城、唐津城、佐賀城、小倉城、佐伯城、二条城(徳川期)
1603年 慶長8年 江戸幕府成立 江戸城、彦根城、津山城
1604年 慶長9年 萩城
1605年 慶長10年
1606年 慶長11年
1607年 慶長12年 松江城
1608年 慶長13年 伊賀上野城、津城(藤堂期)
1609年 慶長14年 丹波笹山城
1610年 慶長15年 名古屋城、弘前城
1611年 慶長16年
1612年 慶長17年
1613年 慶長18年
1614年 慶長19年 大坂冬の陣 高田城
1615年 元和元年 大坂夏の陣・一国一城令
1616年 元和2年 明石城
1617年 元和3年
1618年 元和4年 島原城
1619年 元和5年 八代城、園部城
1620年 元和6年 大阪城(徳川期)、福山城

この表は基本的には新規での築城開始の時期を記載している。ただ、近世城郭の中には、従来の城を新規築城同然に大規模な改修を加えたものもあり、これを新規と見なしたものもある。ただ、その判断は筆者の独断なので、おおよその流れとしてご理解いただきたい。

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