人質櫓
人質櫓は横長の二重櫓で神辺城から移築されたといわれている(備陽六郡志)。「人質」の名称は櫓内に人質を監禁したことに由来するといわれるが、水野時代に藩が人質を取るとは考えにくいことなので、移築前の神辺城での呼称が引き継がれたといわれている。しかし、「人質櫓」の名前以外で記録に残るものはなく、伝承に裏付けがあるわけではない。人質櫓の位置は本丸西側中央で馬出門の背後にあたり、本丸の西側に突出して二の丸に攻め上った敵を広範囲に迎撃できるようになっていた。南側と東側には多聞櫓が接続されていて、南側は馬出門に接続され、東側は荒布櫓まで続いていた。ただし、最も初期の絵図である正保城絵図には、東側、南側、どちらの多聞櫓も土塀で描かれており、築城当初は単独で建っていたようだ。尚、人質櫓は阿部期に「内八番櫓」と呼ばれようになる。
廃城後、人質櫓は周囲の多聞櫓も含めて全て取り壊され、古写真も残されていないので、正確な形状は分からない。1893年(明治26年)に本丸内の櫓跡に隣接する場所に「招魂社」が建てられたが、これは1945年(昭和20年)の空襲により焼失している。この招魂社の設置に関連して周囲の石垣は大きく改変されたらしく、現在の櫓台内側(本丸部分)は本来の規模の約半分に削られ、南側の多聞櫓(武者走り)の石垣も削られている。ちなみに、福山城以外に人質櫓の名称を持つ櫓を有する城として、津和野城(山口県)、府内城(大分県)、などがある。
石組みが近代のものであることがわかるだろう。本来の櫓台の範囲を赤線で示した。尚、左手の階段も後世に付けられたものである。
赤線は武者走りの推定ライン。○に石垣が僅かに残されている。