備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

付武具は伏見櫓に収められていたか?

   

福山藩を始めとする親藩大名には石高に応じて「城付武具」と呼ばれる幕府から貸与された武具類を城内に収納する義務が課せられていた。福山藩には、「水野記」、「備陽六郡志」、「西備名区」などの文献に城付武具の数量が記述されている。このうち、備陽六郡志では、「三階櫓に有之候、城附之武具。」とあり、城付武具は伏見櫓に収納されたと記されている。そして、伏見櫓の内部構造は倉庫以外の用途に向かないこともあり、現在、福山城に関する多くの本で「城付武具は伏見櫓に収納されていた」としている。

しかし、1865年(慶応元年)に藩主阿部正方が幕府に提出した書類には城付武具が櫛形櫓(及び附櫓)と共に焼失したことが記されており、少なくとも城付武具が最後に収納されていたのは伏見櫓ではなく櫛形櫓であった。ただ、城付武具は伏見櫓と櫛形櫓とに分散して収納したとも考えられなくはないが、焼失した城付武具の種類・数量は他の文献の武具の数量に近いものが多くあり、大部分が櫛形櫓にあったことは間違いないのである(下表参照)。そして、櫛形櫓の附櫓である「鑓櫓」、「鉄砲櫓」の名称は水野時代からのものであり、「城付」かどうかはともかく櫛形櫓内には築城当初から武具類が収納されていた可能性が高いと考えられる。また、伏見櫓に城付武具を収納したとする文献は実は備陽六郡志のみであり、備陽六郡志の「三階櫓に有之候」の記述が誤りと考えると辻褄が合うことになる。

ただ、櫛形櫓の焼失時に平常時には収納されるはずのない火薬類が置かれていたので、別の可能性を考えると、城付武具はそのときに限って伏見櫓から櫛形櫓へ移されていたとも考えられなくはない。しかし、城付武具の殆どは水野時代から引き継いだもので幕末には実用に耐えるものではなく、そうしたものをわざわざ別の櫓に移動させる意味があったのか?という点を考えると、やはり城付武具は元々櫛形櫓にあった可能性の方が有力なようである。

城付武具主要目録比較表
目録 水野記 備陽六郡志 西備名区 武器類焼失届
五百匁筒
二百匁筒
火縄銃 500 100 500 120
100 100 100
長柄 100 170
足軽具足 105(150?) 150 150 90

 - 考察