伏見櫓
概要:伏見櫓は福山城では天守に次ぐ規模(8間×4間半:52尺×28.5尺)の櫓である。名前の通り「伏見城(京都府)」から移築されたもので、近世城郭では古風(慶長初期)な様式を持っている。三の丸から二の丸への大手筋を登ったところにあり、本丸から突出して鉄門や西坂口門を突破した敵を正面から迎え撃つようになっている。東側に隣接する筋鉄門とは多聞櫓で繋がれ虎口を形成しており、西側も多聞櫓(附櫓)が繋がれていた。ただし多聞部分は明治初めに全て取り壊されたので現在は単独で建つ姿となっている。櫓台の石垣は非常に精巧な石組みとなっていて、表面には「ハツリ仕上げ」と呼ばれる研磨加工が施されている。このような丁寧な築造がされているのは、現存する石垣では他に天守と筋鉄門のみに見られるものである。
解説:伏見櫓は横長(ほぼ2:1)の長方形で一層と二層は通し柱により同じ規模・構造で造られている。二層の上には入母屋の大屋根が載せられ、この屋根の中央部に下層と独立した構造を持つ望楼状の三層目が乗せられている。三層部分は4間四方の正方形となっていて、壁面の前後(南北)には千鳥破風が付けられている。
一、二層の壁面は格調高いとされる押長で柱を見せた形様式で塗込めとなっている。これは、伏見城から移築された建物に共通した様式といわれることもあったが、元和期の新築である筋鉄門にも同様の意匠が用いられていることなどから今日では否定されている。
櫓内部は三層とも個々の部屋には分割されておらず、柱と階段のみの広大な空間となっている。昭和初期には二層目にL字形の壁体が存在していたが、これは明治時代以降に付けられたもので、1954年(昭和29年)の修理の際に撤去された。また、室内は居住に関する設備は全く設けられておらず、往時は倉庫に使われていたようである。備陽六郡志によると、城付武具が収納されていたとされ、現在までこの記述が広く信じられているが、疑わしい(福山城の城付武具について)。
伏見城と伏見櫓について:
伏見櫓が伏見城から移築されたことについては、「水野記」、「水野家記」、「寛政重修諸家譜」、「福山城開基覚」、「備陽六郡志」、「西備名区」、「福山志科」、など、福山城に関する多くの文献にも記されている。しかし、戦前の研究では多くで徳川期でなく豊臣期の遺構として扱われていた。これが見直されたのは、1942年(昭和17年)、城戸久氏による「備後福山城伏見櫓建築考(建築学会論文集第24号)」の発表からである。
それによると、
「鳥居家中興譜」、「舜旧記(論文では梵舜記)」、「孝亮宿禰記(論文では左大史孝亮記)」、「義演准后日記」、など、伏見城に関する多くの文献で「松の丸櫓(伏見櫓)」が関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失したと記述されていること。
伏見櫓の特徴である横長の形状、一層と二層が同一の構造、三層目が独立した構造、などが、岡山城や彦根城の天守に見られる慶長期の様式であること。
また、構築材が縦(南北)方向は整然であるが横(東西)方向は整然となっていないなど、構築技術が慶長初期のものであること。
以上のことなどから、伏見櫓は徳川期の建築であるとし、築造時期を伏見城が再建された慶長7年頃と推定している。現在では極めて妥当な結論に思えるが、当時も客観的に見れば豊臣期の建築とする根拠は希薄であったはずであり、むしろ、豊臣期建築説が大して疑われもせず支持されていたことが今日では疑問に思えるかもしれない。ただ、当時の世相は徳川幕府を否定的に扱う傾向があったようで、実際、この論文でも徳川期の建築であることが、「残念なこと」とされ、豊臣説を支持する「福山城誌」や「日本城郭考」では豊臣氏の遺構であることが殊更に強調されている。ともかく、この論文以降、伏見櫓は徳川期の伏見城の遺構であるとが有力視されるようになった。また、1954年の解体修理において二層目天井の構造材から「松の丸東櫓」と掘られた文字が見つかり伏見城からの移築が物証によって裏付けられた。
変遷:伏見櫓は現在まで大規模な改変の痕跡は発見されておらず、文献にも記述がないことから、建設後は大きな変化はないと考えられている。ただ、屋根の方杖(支え)は後に付けられたらしく、窓格子の塗込も当初からのものかは分っていない。廃城時は櫓自体が直ちに取り壊されることはなかったが、伏見櫓に続く多聞櫓は撤去されたため、その接続部分である櫓背面(北側)は改変されたらしいが、資料は残されていないので詳細は分かっていない。また、廃城の翌年には、他の施設同様に民間に売りに出されるが、その大きさゆえか、買い手が付くことはなかった。
福山城誌によると、その後、明治15、6年頃から個人が借り受けて「備後倶楽部」と呼ばれるビリヤード場・骨董品展示場が開かれたが、借手は何度か入れ替わり、1919年(大正8年)に店舗は廃止され以後は無人となったようだ。そして、1945年(昭和20年)の空襲でも隣接する筋鉄門と共に焼失を免れ福山城で現存する唯一の櫓として現在に至ることになった。ちなみに、福山出身の小説家である井伏鱒二氏が幼少のころ(明治時代)伏見櫓で骨董を購入したことが自伝に記されている。
伏見櫓は廃城以後、1897年(明治30年)と1954年(昭和29年)の二回に大規模な修理が行われている。現在の瓦は殆どがこのときのものである。また、2004年、台風により、北側のシャチホコが落下して、瓦や漆喰も剥離したため、2005年に修理が行われた。