本丸御殿-奥向
本丸御殿-奥向
現在、奥向御殿の遺構は礎石も含め全く残されていない。奥向は藩主の私的な空間とされるもので、福山城では、初代藩主水野勝成と二代水野勝俊が住んだと伝えられている。その後の城主は三の丸の屋敷に住んだといわれており、以後は無人となっていたようだ。そのためか、阿部期には奥向の施設は撤去されることになり、備陽六郡志によると、享保15年(1730年)に奥居間、奥台所、長局、が江戸へ移されたという。これらは奥向の主要な施設の全てであり、恐らく、江戸藩邸に移築されたのだろう。
奥居間:
藩主と正室の日常生活の場所だと考えられる。「奥居間」、「奥居間次の間」、「奥居間三の間」、「納戸」、「奥座敷」、「奥茶室」の6部屋で構成されている。奥向で最大の建物であり、奥向で最も東に位置している。北面東側に湯殿と便所が付属している。南面は縁側が廻らされており、西端の西側は廊下で奥台所へ繋げられ、南側は渡廊下で表向に繋げられている。東端は東側に渡廊下で化粧櫓へ繋げられている。化粧櫓の両側は多聞櫓となっており(多聞櫓の一部が化粧櫓だともいえるが)、その南端は鏡櫓に繋げられている。御殿を多聞櫓へ接続させたのは、化粧・鏡の名称が持つ意味を考えても、手狭な御殿を補間する目的からだろう。奥居間の南北面は庭園が広がっており、両庭園とも塀により囲われていた。北側の庭園は敷地の狭い本丸では広い敷地があてがわれており、天守を借景として、風光明媚な風景が楽しめたようだ。
奥台所:
奥向の台所で規模は表台所より小振りとなっている。4部屋+土間で構成されている。西面は廊下で奥居間へ繋げられている。南面中央は廊下で料理間へ繋げられている。北東端は北側に渡廊下で長局へと繋げられている。
長局:
奥向で最も北東に位置している。南北に小部屋が連なる長屋状の建物である。南東端に便所が付属している。側室たちが居住していたようだ。
下台所:
備陽六郡志によると、6間×9間の規模で、享保(1716年)以前に取り壊されたという。他の文献や絵図には描かれておらず、詳細は分らないが、存在が事実であれば、下台所という名称、各殿舎の位置関係、建物が設置可能な空間、などから、本丸北西部分(棗門を入ったところ)にあったのではないだろうか。
黄金水:
表向と兼用の施設だと思われるので、奥向に含むかは微妙なところだが、本サイトでは奥向に採り上げた。正保城絵図によれば、深さは6間(約11m)あったという。現在は蓋がされている。