備後歴史探訪倶楽部

福山城を中心に備後地域の歴史を中心とした情報を発信しています。

天守

   

天守正面
解説:福山城天守は慶長期に発達を遂げた天守建築の完成形といえるものである。安土城から始まったとされる天守建築は当初、その土台となる櫓台(石垣)の築造技術が途上であったため、形状に大きな歪みが生じていて、正確な方形にはなっていなかった。このため、その上に立てられる天守もその歪みに合わせて不正形なものにならざるをえず、初期の天守は歪みを解消するバッファとして、建物の中間に大屋根(入母屋)を設け、その上に構造的に独立した建物を載せる構造を持っていた。この形態は「望楼形」と呼ばれ、福山城では伏見櫓がこの構造を持ち、文字通り建物に望楼(見張台)を載せたような形状をしている(近世城郭後期の福山城にあって、こうした建物が存在するのは伏見櫓が伏見城(慶長前期)から移築された建物だからである)

慶長後期になると、技術の発達により、櫓台は高い精度で構築できるようになった。そのため、望楼形式は必然でなくなり、規則的に層を重ねる「層塔型」と呼ばれる形状が出現することになった。同時に建築技術の発達により建物の低減率(上層と下層の幅の比率)は次第に小さくなり、天守は次第に建築の様式を確立していった。つまり、天守は「館」から「塔」へと構造を変えていったといえる。しかし、塔層型は望楼型のようなダイナミックな形状の変化がないため、どうしてものっぺりとしたものになってしまう。そのため、屋根を装飾する「破風」も様式を整えることになった。また、現代人にも望楼型形状の方がウケがいいようで、功罪はともかく小倉城や今治城、大阪城、唐津城など、復興天守には層塔型から望楼型に変えられたものも多くある。ともかく、こうした中で福山城天守は慶長期に発達した天守の頂点といえる完成された様式・構造を持っており、石垣の歪みは前後(南北)約30cm、左右(東西)約40cmと非常に小さく、低減率は各層とも1間/層と非常に低い値となっている。

福山城天守は慶長期の近世城郭と比べて著しく均整のとれた構造を持っている。下表のように、内部内側の構成・規模は地階から最上階まで全く同じで、18本(5×4)の柱と2本の芯柱で構成され、その周りを囲う廊下の幅を0.5間づつ逓減させている。要するに、一階廊下の幅を2.0間とし、二階廊下1.5間、三階廊下1.0間、四階廊下0.5間、そして、5階で廊下がなくなるというわけである。言い換えるなら、5階の構造をコアに廊下の幅を徐々に広げていったともいえるだろう。

福山城天守柱寸法表(福山城誌より)
階数 外側柱寸法 外側柱間 外側柱数 内側柱寸法 内側柱間 内側柱数
地階 8寸×1尺1寸 6尺 34 1尺2寸×1尺2寸 5尺8寸 18
一階 8寸×1尺 6尺 34 1尺2寸×1尺2寸 5尺8寸 18
二階 8寸×1尺 6尺1寸 26 1尺2寸×1尺2寸 5尺8寸 18
三階 8寸×9寸 6尺2寸 26 1尺×1尺 6尺3寸 18
四階 8寸×8寸 6尺3寸 18 1尺×1尺 6尺3寸 18
五階 7寸×7寸 6尺6寸 18

天守東面

天守東面


天守西面

天守西面


天守南面

天守南面


天守北面

天守北面

天守入口

天守入口


庇、門、窓などの位置・形状が異なるのがわかる。石垣は表面が火災の熱で剥離しているのがわかる。

焼失前の天守入口

焼失前の天守入口

ちなみに、門脇の案内板の下に石碑「国宝福山城天守閣」の土台が残されている。

石碑土台

石碑土台

 - 本丸